NHKドラマ
『純情きらり』。久しぶりの戦争をはさんだ時代物で舞台は
岡崎。
岡崎は三河(愛知県東部)の中央にある都市で、
徳川家康のふるさとでもあります。
各地図はクリックすると拡大表示されます。
↑愛知県(この地図は
青木さんのサイト内「地図を描く!」よりダウンロード、加工したものです)
劇中生き生きとした三河弁が飛び交います。
戸田恵子さん*の女将さん、パワフルですね! 私の母方の伯母はみんなあんな感じです(笑)。
名古屋弁と三河弁はちょっと似てます。というのは徳川家入封によって、名古屋には三河武士達が住みつき、三河弁と尾張弁が混ざってしまったのが名古屋弁のルーツだからです。だから岐阜弁、三重弁とはちょっと異なってるんですよ、名古屋弁。ちなみに同じように徳川家と三河武士が築いた江戸の町。東京弁にも三河弁は混じってるんじゃないかな(「~じゃん」とか)。
*調べてみたら春日井市出身とのこと。ビックリ!
小野道風、
チェリッシュのエッちゃん(松崎悦子さん)と並ぶ郷土の偉人であります。
↑岡崎城天守(復興) 井上宗和著 朝日新聞社『定本 日本の城』(昭和41年刊)より
一国全てが徳川家の支配地だった尾張とは異なり、三河は中小規模の譜代大名によって分割統治されました。家康生誕の地であり、長男
信康も城主だったこともあって、岡崎城主となることは名誉なこととされておりました。
岡崎藩は5万石の中藩でありますが、三河国内では最大の藩で、水野、本多、松平など徳川譜代の名門が城主を務め、寺社奉行や京都所司代、老中、若年寄など幕府の主要ポストに就く者も多数おりました。
吉宗の時代に老中を務め、享保の改革前半期に活躍した
水野忠之(ただゆき)も当時岡崎城主でした。
このように閣僚達の領土であった三河諸藩。閣僚達はどうしても中央に目が行きがちですが、城である以上、軍事目的もちゃんと持っておりました。
岡崎城は名古屋城への備えだったのです。
名古屋城が西国大名への備えであったように、岡崎城はその名古屋城を支える、あるいは監視する役目があったのです。江戸幕府の大名配置は相次ぐ除封転封でどんどん入り組んでゆきますが、隣接する藩同士を仲良くさせない、お互い監視させあう、というのが原則でありました。
時は
義直在世中のこと。1645年に
水野忠善(ただよし;監物)が岡崎城主に任ぜられます。
どちらかと言えば武より文のイメージが強い義直ですが、やはり彼も時代の子、そして家康の子。国にあるときは家臣に甲冑を着せ、訓練に励むのが日課であったそうです。その情報に眉をひそめたのが水野監物。加賀の前田、薩摩の島津といった外様大大名も幕府の鼻息を伺っている今、国内最大の実力を持つのは尾張と紀伊の両徳川家。そんな尾張家が戦の訓練をしているとは。
お忍びでお供の家臣を連れ名古屋城下にもぐり込み、様子を伺いますがその気配はありません。そこで監物、見物を装い、名古屋城の堀に縄をたらしてその深さを測ろうとしました。
ところがたまたま高楼にいた義直が目ざとくこれを見つけます。堀の深さは各藩の軍事機密。当然義直は激怒。
「あれを見よ。縄をたらして堀の深さを測る者がおるぞ! 監物に違いない。誰にせよ、我が居城の堀を調べるとは不届き千万! 構わぬから討ち取ってしまえ!」
一方監物も堀の深さを測る以上、誰かに見咎められるは必定。弁解の余地もないことは承知の上。初めからこのことを予想し、俊足の馬七頭を道筋のあちこちに配置。逃げる準備にぬかりはありませんでした。その甲斐あって監物は無事岡崎に戻り、追っ手の尾張家臣たちはすごすご引き下がるほかありませんでした。
義直は口惜しがりますが、もはやどうにもなりません。
後日江戸城内で義直は監物にからみます。
「岡崎は名古屋の押さえだ。私が大軍を催し、東下しようとしたら、お前はこれをよく阻止できるか」
「もちろんです。たとえ西国33カ国の軍をお率いになられても、二十日の間食い止めてみせます。そのうちには関東から加勢が来るでしょう」
臆せず言い放ちました。義直も頑固でしたが監物もそうとうなものですね。
『純情きらり』では戸田さんが
八丁味噌の老舗の女将を演じておられますが、八丁味噌のルーツは家康たち三河武士が兵糧として持ち歩いた豆味噌だそうです。そういえば劇中でも
宮﨑あおいさん演じるヒロインが海軍に八丁味噌を売り込みに行ってました。
腐りにくい三河の味噌と監物のような頑固で忠義な三河武士。徳川家が天下をとれた秘密はここらへんにもありそうですね。
『純情きらり』の公式ホームページは
こちら
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