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江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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目次を作りました

このブログでは尾張徳川家とその周辺の人物を紹介しております。
本来なら時代順に紹介すべきなのですが、気の向くまま書いておりますので、順番がバラバラ。
時代順に並べた目次を作りましたので、わかりにくい人はそちらを参照して下さい。
目次へ
# by fouche1792 | 2007-07-20 19:26
本日(7月20日)付け朝日新聞夕刊トップに「靖国参拝中止『私の心』/昭和天皇A級戦犯合祀に不快感」として以下の記事が載っておりました。

 昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されたことについて、「私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などと発言したメモが残されていることが分かった。当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記し、家族が保管していた。昭和天皇は靖国神社に戦後8回参拝。78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝していなかった。A級戦犯合祀後に昭和天皇が靖国参拝をしなかったことをめぐっては、合祀当時の側近が昭和天皇が不快感を抱いていた、と証言しており、今回のメモでその思いが裏付けられた格好だ。


記事全文はコチラ

これに対し韓国が速報を流したり、小泉首相や小沢一郎さんがコメントを発するなど、各方面に波紋が起こっています。

この問題に立ち入るのは当ブログの趣旨から外れますので、このはなはだセンセーショナルな見出しと記事、メモ内容が合致するかどうかはお読みになった方それぞれが判断なさって下さい。

asahi.comには出ていないのですが、続けて「中止の理由定説裏づけ」という小見出しで以下のように書かれておりました。

「靖国とは国を安らかにすることであるが……」
昭和天皇は、靖国神社のA級戦犯合祀について側近にこう語り、強い不快感を示していた。
数年置きに私的に参拝していた同神社や護国神社への参拝を合祀以降は行わないとの意思を示したことは、合祀当時に靖国神社側と折衝した故徳川義寛元侍従長や天皇の側近らが95年、朝日新聞記者に証言していた。(以下略 傍線引用者)


ここに出てくる徳川義寛(よしひろ)さんは尾張徳川家、明治以降は侯爵となるのですが、その尾張徳川侯爵家の分家筋の方です。

番外 侍従長 徳川義寛  尾張分家徳川家_e0075643_2211661.jpg


明治維新当時尾張家の当主は16代義宜(よしのり)でしたが、わずか10歳(数え年)だったため、実験は父慶勝(よしかつ)が握っておりました。
その後1869年版籍奉還にあたり名古屋藩知事となりますが、1870年病弱のため引退。父慶勝が名古屋藩知事となります。そして1875年わずか18歳で死去。父慶勝が子のあとを継いで17代目当主となります。
ですが慶勝もすでに52歳。跡継ぎとして高松松平家(水戸家分家)から義礼(よしあきら)を養子に向かえます。こうして1880年義礼が18代目当主となり、1884年に華族令にともない侯爵となります。
この義礼さんは北海道の熊の木彫りのアイディアを出した人ですが、短命な人で、1908年に死去。
その直前に養子になり19代目を継いだのが幕末四賢侯の一人、松平春嶽の末子義親(よしちか)さん。彼は非常に行動的な人物で、マレーに虎狩に行ったり、戦中は軍政顧問、戦後は社会党顧問となったり、尾張家をはじめ華族の財政を立ち直らせたり、徳川美術館を作ったりなどしたとてもユニークな方です。
こうして尾張家は現在まで続いているのですが、慶勝は明治以後にも複数の子供を作っており、1878年に生まれた十一男の義恕(よしくみ)は分家して男爵となっています。
義恕さんは大正天皇の侍従を勤めていたのですが、その長男である義寛さんも昭和天皇の侍従を長く勤め、最後には侍従長となります。

義寛さんが大活躍したのが1945年8月14日。終戦前夜のこと。
彼らの働きがなかったら、8月15日に戦争は終わらなかったかもしれない、という危険なお話であります。
# by fouche1792 | 2006-07-20 22:45 | 尾張徳川十七代
NHKドラマ『純情きらり』。久しぶりの戦争をはさんだ時代物で舞台は岡崎
岡崎は三河(愛知県東部)の中央にある都市で、徳川家康のふるさとでもあります。

各地図はクリックすると拡大表示されます。
番外 岡崎城主 水野監物_e0075643_3471326.jpg


番外 岡崎城主 水野監物_e0075643_2154923.jpg

↑愛知県(この地図は青木さんのサイト内「地図を描く!」よりダウンロード、加工したものです)

劇中生き生きとした三河弁が飛び交います。戸田恵子さん*の女将さん、パワフルですね! 私の母方の伯母はみんなあんな感じです(笑)。
名古屋弁と三河弁はちょっと似てます。というのは徳川家入封によって、名古屋には三河武士達が住みつき、三河弁と尾張弁が混ざってしまったのが名古屋弁のルーツだからです。だから岐阜弁、三重弁とはちょっと異なってるんですよ、名古屋弁。ちなみに同じように徳川家と三河武士が築いた江戸の町。東京弁にも三河弁は混じってるんじゃないかな(「~じゃん」とか)。

*調べてみたら春日井市出身とのこと。ビックリ! 小野道風チェリッシュのエッちゃん(松崎悦子さん)と並ぶ郷土の偉人であります。


番外 岡崎城主 水野監物_e0075643_1984993.jpg

↑岡崎城天守(復興) 井上宗和著 朝日新聞社『定本 日本の城』(昭和41年刊)より

一国全てが徳川家の支配地だった尾張とは異なり、三河は中小規模の譜代大名によって分割統治されました。家康生誕の地であり、長男信康も城主だったこともあって、岡崎城主となることは名誉なこととされておりました。
岡崎藩は5万石の中藩でありますが、三河国内では最大の藩で、水野、本多、松平など徳川譜代の名門が城主を務め、寺社奉行や京都所司代、老中、若年寄など幕府の主要ポストに就く者も多数おりました。吉宗の時代に老中を務め、享保の改革前半期に活躍した水野忠之(ただゆき)も当時岡崎城主でした。

このように閣僚達の領土であった三河諸藩。閣僚達はどうしても中央に目が行きがちですが、城である以上、軍事目的もちゃんと持っておりました。
岡崎城は名古屋城への備えだったのです。
名古屋城が西国大名への備えであったように、岡崎城はその名古屋城を支える、あるいは監視する役目があったのです。江戸幕府の大名配置は相次ぐ除封転封でどんどん入り組んでゆきますが、隣接する藩同士を仲良くさせない、お互い監視させあう、というのが原則でありました。

時は義直在世中のこと。1645年に水野忠善(ただよし;監物)が岡崎城主に任ぜられます。
どちらかと言えば武より文のイメージが強い義直ですが、やはり彼も時代の子、そして家康の子。国にあるときは家臣に甲冑を着せ、訓練に励むのが日課であったそうです。その情報に眉をひそめたのが水野監物。加賀の前田、薩摩の島津といった外様大大名も幕府の鼻息を伺っている今、国内最大の実力を持つのは尾張と紀伊の両徳川家。そんな尾張家が戦の訓練をしているとは。
お忍びでお供の家臣を連れ名古屋城下にもぐり込み、様子を伺いますがその気配はありません。そこで監物、見物を装い、名古屋城の堀に縄をたらしてその深さを測ろうとしました。
ところがたまたま高楼にいた義直が目ざとくこれを見つけます。堀の深さは各藩の軍事機密。当然義直は激怒。

「あれを見よ。縄をたらして堀の深さを測る者がおるぞ! 監物に違いない。誰にせよ、我が居城の堀を調べるとは不届き千万! 構わぬから討ち取ってしまえ!」

一方監物も堀の深さを測る以上、誰かに見咎められるは必定。弁解の余地もないことは承知の上。初めからこのことを予想し、俊足の馬七頭を道筋のあちこちに配置。逃げる準備にぬかりはありませんでした。その甲斐あって監物は無事岡崎に戻り、追っ手の尾張家臣たちはすごすご引き下がるほかありませんでした。
義直は口惜しがりますが、もはやどうにもなりません。

後日江戸城内で義直は監物にからみます。

「岡崎は名古屋の押さえだ。私が大軍を催し、東下しようとしたら、お前はこれをよく阻止できるか」
「もちろんです。たとえ西国33カ国の軍をお率いになられても、二十日の間食い止めてみせます。そのうちには関東から加勢が来るでしょう」

臆せず言い放ちました。義直も頑固でしたが監物もそうとうなものですね。


『純情きらり』では戸田さんが八丁味噌の老舗の女将を演じておられますが、八丁味噌のルーツは家康たち三河武士が兵糧として持ち歩いた豆味噌だそうです。そういえば劇中でも宮﨑あおいさん演じるヒロインが海軍に八丁味噌を売り込みに行ってました。
腐りにくい三河の味噌と監物のような頑固で忠義な三河武士。徳川家が天下をとれた秘密はここらへんにもありそうですね。


『純情きらり』の公式ホームページはこちら

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# by fouche1792 | 2006-07-17 20:01 | 尾張徳川十七代

2代 徳川光友 御連枝

**各図はクリックすると拡大表示されます**

忠臣蔵で有名な浅野内匠頭は播州赤穂浅野家の三代目。赤穂浅野家は広島浅野家の分家です。幕府に御三家があったように大身の外様大名などには万石以上の分家がありました。
中には特殊な例もありますが、大体が分知、自分の領土を分けあたえるのが普通でした。

御三家の分家大名は松平を名乗り、御連枝と呼ばれています。分家を立てることについて、尾張家初代義直のこんなエピソードが残っています。

かつて紀伊頼宣が、子の頼純(よりずみ)に紀伊55万石の内10万石を割いて分家させようと企画したことがありました。そこで胸中を安藤・水野の両付家老に打ち明けたところ、両名は口をきわめて反対。しかし頼宣の決意は固く、聞き入れる様子はありません。
「では、義直殿のご意見を伺おう」
と言うのみでした。
そこで紀伊家家臣は夜に入って尾張家の屋敷に伺候し、自分達の見解を義直に打ち明けるのでした。
「どうか主君頼宣の今回の企てをお止めいただきたく存じます。今のところは御父子の間柄ですから何の問題もございますまい。しかし徳川の御代がいついつまでも太平ならば、本家・分家ともに代々を重ねますから、その間柄は次第に疎遠になり、他人とあまり変わらなくなります。さすれば同国内に他領が混在するのと同じこと。もしも分家が断絶すればどうなりましょうか。領地は収公されるやもしれません」
義直はもっともなこととうなずき、頼宣に強く意見したため、頼宣も断念したそうです。

ところが義直死後の1670年には頼純は伊予(愛媛県)西条3万石の領主となっています。

2代 徳川光友 御連枝_e0075643_1829759.jpg


これはどうしたことでしょう?

実は御連枝諸家は分知ではなく、幕府から新たに領地を与えられる形で大名となっているのです(水戸の分家は当初分知であったが、後に他領に振り替えとなり、領土を本家に戻している)。そして何より本家が断絶する憂いを除くためでした。
吉宗が8代将軍となった後、頼純の子、頼致(よりよし)が紀伊家6代藩主となり、宗直(むねなお)となります。
紀伊家にはこの西条松平家のほかに松平鷹司家という御連枝があります。こちらは特殊な大名で、鷹司(たかつかさ)の名前のとおり、元はお公家さん。3代将軍家光の正妻の実家です。姉の輿入れとともに江戸に下向し、5000石の旗本となりましたが、後に紀伊頼宣の娘が嫁ぎ、間に子が生まれたので上野(群馬県)吉井1万石の大名になったもの。


水戸家初代頼房は子宝に恵まれ、長男頼重の高松松平家12万石を筆頭に4つの連枝がありました。

2代 徳川光友 御連枝_e0075643_18293159.jpg


長男でありながら水戸家を継げなかった頼重。
実は頼重・光圀の兄弟は水子にされる運命でした。父頼房が妻を持つ前に側室の子として生まれたため、世間をはばかって流産させられるところを家臣の機転で助かり、そのまま家臣の家で養育されていました。兄弟ともに同じ母から生まれたのですが、なぜか二男である光圀が世子(跡継ぎ)となります。これは兄頼重が生まれた頃には尾張、紀伊ともに子がなかったため、父頼房がはばかったそうです。
真偽のほどはわかりません。第一頼房は終生正室を持たなかったし、生年の問題も、後から認知してしまったらそんなに重大ではないと思えるのです。やはり光圀が英明だったからではないでしょうか。
光圀は兄を差し置いて水戸家を継いだことにわだかまりがあったようです。そこで兄の子を本家の、自分の子を兄の家の後継にしました。
家光も頼重の境遇には同情し、下館5万石であったのを高松12万石にしてあげてます。他の御連枝が2=3万石なのに比べ、これは破格といえましょう。



尾張家には三つの分家がありましたが、幕末まで続いたのは高須藩のみでした。

2代 徳川光友 御連枝_e0075643_1829518.jpg


これら御連枝は石高は少ないながらも御三家の分家として高い格式を誇りました。その格式を維持するのは困難であり、領土経営や家臣の知行までも本家の援助を受けていました。

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# by fouche1792 | 2006-07-14 12:50 | 尾張徳川十七代
2代 徳川光友 光友の肖像_e0075643_18122991.jpg

歴史読本1998年4月号 『徳川御三家 尾張・紀伊・水戸家、将軍家との闘争史』148頁より転写

画像をクリックしていただくと拡大表示されます。多少見やすくなるかも。。。

1650年父義直死去により26歳で2代藩主となり、1693年69歳で隠居するまで43年間藩主の座にいつづけました。隠居後も藩政をリードし続け、1700年に76歳で死去。在任期間は父義直の47年間に劣るものの、義直の場合は4歳で、しかも甲府城主としのスタートでしたから、名古屋城主として考えると歴代最長。そして寿命も歴代最長です。

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# by fouche1792 | 2006-07-12 18:15 | 尾張徳川十七代