初代 徳川義直 将軍家光との争い
2006年 02月 25日
将軍家と尾張家の争いと言えば、吉宗と宗春が有名ですが、実は初代義直も何度か家光と衝突したことがあります。
先に見たような両者の性格の違いもあるでしょうが、何よりも「生まれながらの将軍」として、全ての諸大名を家臣化していった幕府の方針とぶつかったのです。
もちろん義直は
「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」
との家康の遺言を忘れたわけではありません。諸大名のトップとして、率先して将軍家を守り立てるつもりでした。
しかし甥(わずか4歳差ですが)の高飛車な仕打ちに、彼の自負心が何度も傷つけられます。
将軍家ご危篤
寛永10年(1633年)に家光が病気になりました。病状は芳しくなく、危篤との噂が流れました。そのころはまだ嫡男家綱が生まれておりませんでしたので、万が一のことがあれば将軍家が途絶えてしまいます。
このとき行動を起こしたのが義直。急遽江戸へ向かいます。
あわてた幕府首脳。
「なぜ許可もなく江戸へ参られたのですか」
「今、将軍家にお子無し。家系が途絶えるのは天下の一大事ではないか」
つまり自分の出番だ、というのですね。
とはいえ、いくら義直と言えど許可なく江戸へ入れるものではなく、すごすごと引き返すことに。
この時より
「尾張殿に謀反の意あり」
と睨まれ、警戒されるようになりました。
事実この時期には、外様大名で将軍家に逆らえる実力のあるものは一人もおりません。あまたの大名が改易の憂き目に会った中で、尾張、紀伊の両家が最大の大名として残ってしまいました。将軍家に次ぐ格式と経済力を持って。
義直に野心があったかどうか。私なりの推測をお許しくだされば、彼は将軍家にとって代わるまでは思っていなかったでしょう。生来の四角四面ゆえに、天下騒乱を未然に防ぐために江戸へ下ったのだと思います。
しかしながら、はたから見れば「野心あり」とされても言い訳できない行動でありました。
鎌倉時代にも同じようなことがありました。
1193年、富士の巻き狩りで有名な曽我兄弟のあだ討ちが起こったときのこと。
この時頼朝も殺されてしまった、との風聞が鎌倉に伝わりました。
嘆き悲しむ北条政子に
「後にはそれがしがおりますから、安心めされい」
と言ったのが弟の範頼(のりより;義朝の六男で、頼朝の弟、義経の兄)。
この一言が原因で、実は死んでいなかった頼朝に
「将軍位を狙っているのでは」
疑われ、伊豆修善寺に押し込められ、やがて殺されてしまいます。
これを考えると、義直の行動はやはり軽率であったと言うしかありません。
名古屋城篭城
寛永11年(1634年)、家光は京へ上ることになり、その帰路、名古屋へ立ち寄ることを義直に告げました。
将軍のおなりとなれば、それは家門の誉れ。門や屋敷を新築するのがならいです。義直も城内の本丸御殿を改修。新たに御成書院(上洛殿)や御湯殿などが造られました。
ちなみに江戸時代の大名は天守閣に住んでいたわけではありません。城内の御殿に住み、そこで政務を執っていました。名古屋城にはかつて本丸御殿(戦前は天守閣とともに国宝)と二の丸御殿、二つの御殿がありました。本丸御殿は将軍家のおなり御殿として使用されるようになり、藩主は以後二の丸御殿に住むようになりました。将軍家の立ち寄る本丸御殿はたいそう豪華だったそうです。戦災で消失したのが惜しまれます。
ところが家光は急遽予定を変更。名古屋城には立ち寄らないことに。
おそらくは前年のしこりが残り、警戒していたのでしょう。
これには義直、面目丸つぶれ。莫大な費用と手間をかけて御殿を改築したのもすべて無駄。
将軍家に弓引くことは父の遺言にそむくことですが、義直にも武士の意地があります。
そこで弟の頼宣(よりのぶ;紀伊家初代)に胸のうちをぶちまけます。
「このたびのお上のなされようはあまりにもひどい。おかげで私は天下の笑いもの。骨を折った家臣、領民たちにも申し訳が立たぬ。かくなる上は名古屋城に篭城して、一矢報いようと思う」
驚いた頼宣。父の遺言を忘れたのかと、必死に説得しますが、義直は聞きません。
「私にも意地というものがある」
「しかし、たとえ名古屋城が天下の名城といえど、将軍家ならびに全国の諸大名を敵に回しては勝ち目はありますまい」
「命が惜しいのではない。名が惜しいのだ」
そこで頼宣、はらはらと涙を流し
「兄上がそこまで覚悟なされているならば、もはや止めはいたしません。しかしながら、戦うからには勝たねばなりません。これぞ真の武士と言うもの。ならば篭城は下策。勝ち目のない戦を仕掛けて死んでしまってはそれこそ天下の笑いものとなりましょうぞ。
かくなる上は城より打って出て、将軍家帰路の途中を攻めませい。及ばずながら私めも兵を挙げます。ともに戦いましょうぞ。もし勝てれば天下は我らのもの。敗れれば、兄弟揃っていさぎよく果てましょう」
驚いた義直。弟の誠心に涙を浮かべながら、
「当家のために、そなたまで巻き添えにするわけにはいかぬ。それこそ神君(家康)に申し訳が立たぬ。ここは忍従しよう」
「わかってくださりましたか」
こうして将軍家光は無事江戸に帰ることができました。
後には将軍位を激しく争うことになる尾張と紀伊ですが、この時代にはまだ兄弟の間柄。近しい存在でありました。
竹千代
さて、長い間子宝に恵まれなかった家光にも1641年に嫡男が誕生します。
*家光に長い間子がなかったのは、男色にふけっていたからだそうです。>春日の局も痛く心配して、何人もの美女を大奥に送り込んだそうです。
春日の局が家光に寄せた愛情はまことに厚いもので、母にあまり愛されなかった家光を慈しみました。食べ物の好き嫌いが激しかった彼のために、わざわざ五色のご飯を作らせたこともあったそうです。
将軍家嫡男の名前は竹千代。後の四代将軍家綱です。
この竹千代の山王社初詣の際三家も供奉を命じられました。これにカチンと来たのが義直。
「大納言である私が、無位無官の竹千代様に供奉はできない」
しかし、はいそうですか、では済まされません。老中(知恵伊豆こと松平信綱)はなんとかなだめようとします。
「とはいえ、竹千代様は将軍家のお子でございます」
「親の官位が尊いというのならば我らこそ太政大臣の子ではないか」
「上様のためです。そこは曲げて、お供してもらいたい」
「典礼を曲げることはかえってお上のためにならぬ」
こうして義直らは山門で竹千代を迎え、そこから一緒したそうです。
う~む。こうやって書いてみると、どうも義直の分が悪いですねえ。
確かに礼儀を重んじ、皇室を尊び、理を曲げないのはいいことでしょうが、彼は意地を張りすぎました。ちょっと大人気ないですね。
とはいえ、家光の方も態度に問題はありました。
当初義直たちは「尾張様」、「紀伊様」と呼ばれておりました。
これにむっとしたのが家光。「上様」である自分と同じ様づけとは何事だ、と気色ばんだといいます。
この頃から「尾張殿」「紀伊殿」と殿づけでよばれることに。
義直が1650年に病死したことは先日書きました。
この時も家光はあっさりしたもので、わずかな日数のうちに、紀伊家、水戸家に
「これで早々に精進落としをなされい」
と生臭物を賜ったそうです。
どこまでもそりの合わぬ二人でした。
NEXT 義直の顔
先に見たような両者の性格の違いもあるでしょうが、何よりも「生まれながらの将軍」として、全ての諸大名を家臣化していった幕府の方針とぶつかったのです。
もちろん義直は
「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」
との家康の遺言を忘れたわけではありません。諸大名のトップとして、率先して将軍家を守り立てるつもりでした。
しかし甥(わずか4歳差ですが)の高飛車な仕打ちに、彼の自負心が何度も傷つけられます。
将軍家ご危篤
寛永10年(1633年)に家光が病気になりました。病状は芳しくなく、危篤との噂が流れました。そのころはまだ嫡男家綱が生まれておりませんでしたので、万が一のことがあれば将軍家が途絶えてしまいます。
このとき行動を起こしたのが義直。急遽江戸へ向かいます。
あわてた幕府首脳。
「なぜ許可もなく江戸へ参られたのですか」
「今、将軍家にお子無し。家系が途絶えるのは天下の一大事ではないか」
つまり自分の出番だ、というのですね。
とはいえ、いくら義直と言えど許可なく江戸へ入れるものではなく、すごすごと引き返すことに。
この時より
「尾張殿に謀反の意あり」
と睨まれ、警戒されるようになりました。
事実この時期には、外様大名で将軍家に逆らえる実力のあるものは一人もおりません。あまたの大名が改易の憂き目に会った中で、尾張、紀伊の両家が最大の大名として残ってしまいました。将軍家に次ぐ格式と経済力を持って。
義直に野心があったかどうか。私なりの推測をお許しくだされば、彼は将軍家にとって代わるまでは思っていなかったでしょう。生来の四角四面ゆえに、天下騒乱を未然に防ぐために江戸へ下ったのだと思います。
しかしながら、はたから見れば「野心あり」とされても言い訳できない行動でありました。
鎌倉時代にも同じようなことがありました。
1193年、富士の巻き狩りで有名な曽我兄弟のあだ討ちが起こったときのこと。
この時頼朝も殺されてしまった、との風聞が鎌倉に伝わりました。
嘆き悲しむ北条政子に
「後にはそれがしがおりますから、安心めされい」
と言ったのが弟の範頼(のりより;義朝の六男で、頼朝の弟、義経の兄)。
この一言が原因で、実は死んでいなかった頼朝に
「将軍位を狙っているのでは」
疑われ、伊豆修善寺に押し込められ、やがて殺されてしまいます。
これを考えると、義直の行動はやはり軽率であったと言うしかありません。
名古屋城篭城
寛永11年(1634年)、家光は京へ上ることになり、その帰路、名古屋へ立ち寄ることを義直に告げました。
将軍のおなりとなれば、それは家門の誉れ。門や屋敷を新築するのがならいです。義直も城内の本丸御殿を改修。新たに御成書院(上洛殿)や御湯殿などが造られました。
ちなみに江戸時代の大名は天守閣に住んでいたわけではありません。城内の御殿に住み、そこで政務を執っていました。名古屋城にはかつて本丸御殿(戦前は天守閣とともに国宝)と二の丸御殿、二つの御殿がありました。本丸御殿は将軍家のおなり御殿として使用されるようになり、藩主は以後二の丸御殿に住むようになりました。将軍家の立ち寄る本丸御殿はたいそう豪華だったそうです。戦災で消失したのが惜しまれます。
ところが家光は急遽予定を変更。名古屋城には立ち寄らないことに。
おそらくは前年のしこりが残り、警戒していたのでしょう。
これには義直、面目丸つぶれ。莫大な費用と手間をかけて御殿を改築したのもすべて無駄。
将軍家に弓引くことは父の遺言にそむくことですが、義直にも武士の意地があります。
そこで弟の頼宣(よりのぶ;紀伊家初代)に胸のうちをぶちまけます。
「このたびのお上のなされようはあまりにもひどい。おかげで私は天下の笑いもの。骨を折った家臣、領民たちにも申し訳が立たぬ。かくなる上は名古屋城に篭城して、一矢報いようと思う」
驚いた頼宣。父の遺言を忘れたのかと、必死に説得しますが、義直は聞きません。
「私にも意地というものがある」
「しかし、たとえ名古屋城が天下の名城といえど、将軍家ならびに全国の諸大名を敵に回しては勝ち目はありますまい」
「命が惜しいのではない。名が惜しいのだ」
そこで頼宣、はらはらと涙を流し
「兄上がそこまで覚悟なされているならば、もはや止めはいたしません。しかしながら、戦うからには勝たねばなりません。これぞ真の武士と言うもの。ならば篭城は下策。勝ち目のない戦を仕掛けて死んでしまってはそれこそ天下の笑いものとなりましょうぞ。
かくなる上は城より打って出て、将軍家帰路の途中を攻めませい。及ばずながら私めも兵を挙げます。ともに戦いましょうぞ。もし勝てれば天下は我らのもの。敗れれば、兄弟揃っていさぎよく果てましょう」
驚いた義直。弟の誠心に涙を浮かべながら、
「当家のために、そなたまで巻き添えにするわけにはいかぬ。それこそ神君(家康)に申し訳が立たぬ。ここは忍従しよう」
「わかってくださりましたか」
こうして将軍家光は無事江戸に帰ることができました。
後には将軍位を激しく争うことになる尾張と紀伊ですが、この時代にはまだ兄弟の間柄。近しい存在でありました。
竹千代
さて、長い間子宝に恵まれなかった家光にも1641年に嫡男が誕生します。
*家光に長い間子がなかったのは、男色にふけっていたからだそうです。>春日の局も痛く心配して、何人もの美女を大奥に送り込んだそうです。
春日の局が家光に寄せた愛情はまことに厚いもので、母にあまり愛されなかった家光を慈しみました。食べ物の好き嫌いが激しかった彼のために、わざわざ五色のご飯を作らせたこともあったそうです。
将軍家嫡男の名前は竹千代。後の四代将軍家綱です。
この竹千代の山王社初詣の際三家も供奉を命じられました。これにカチンと来たのが義直。
「大納言である私が、無位無官の竹千代様に供奉はできない」
しかし、はいそうですか、では済まされません。老中(知恵伊豆こと松平信綱)はなんとかなだめようとします。
「とはいえ、竹千代様は将軍家のお子でございます」
「親の官位が尊いというのならば我らこそ太政大臣の子ではないか」
「上様のためです。そこは曲げて、お供してもらいたい」
「典礼を曲げることはかえってお上のためにならぬ」
こうして義直らは山門で竹千代を迎え、そこから一緒したそうです。
う~む。こうやって書いてみると、どうも義直の分が悪いですねえ。
確かに礼儀を重んじ、皇室を尊び、理を曲げないのはいいことでしょうが、彼は意地を張りすぎました。ちょっと大人気ないですね。
とはいえ、家光の方も態度に問題はありました。
当初義直たちは「尾張様」、「紀伊様」と呼ばれておりました。
これにむっとしたのが家光。「上様」である自分と同じ様づけとは何事だ、と気色ばんだといいます。
この頃から「尾張殿」「紀伊殿」と殿づけでよばれることに。
義直が1650年に病死したことは先日書きました。
この時も家光はあっさりしたもので、わずかな日数のうちに、紀伊家、水戸家に
「これで早々に精進落としをなされい」
と生臭物を賜ったそうです。
どこまでもそりの合わぬ二人でした。
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by fouche1792
| 2006-02-25 22:43
| 尾張徳川十七代