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江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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10代 徳川斉朝   一橋家、諸大名を血統で支配する

1799年、9代尾張藩主、徳川宗睦(むねちか)死去。また1801年には分家の高須藩7代藩主松平勝当(かつまさ)死去。ここに藩祖義直の血統が絶えました。この後およそ50年間は将軍家、一橋徳川家から次々と養子が来、藩士領民の意向を無視した「押し付け養子縁組」に反幕の意識が高まってゆきます。


御三卿の成立
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将軍吉宗は享保の改革の立役者であり、幕府中興の英主でありました。
しかし彼も人の子。晩年は己の血統が将軍位を独占することを強く願いました。尾張家の宗春の反逆に手を焼いたのもその一因かもしれません。
最初吉宗は宗春を隠居させた後の尾張家に自分の次男宗武(むねたけ)を押し付けようとしましたが、尾張家重臣たちの反対にあって断念。御三家を自分の子供に継がせるのが無理と知り、1746年、宗武と四男の宗尹(むねただ)にそれぞれ10万石を与え別家させました。
二人はそれぞれ徳川を名乗り、江戸城内に屋敷を与えられ、屋敷の所在地名(屋敷付近の門の名前)をとって田安徳川家一橋徳川家と呼ばれるようになりました。これに吉宗の死後の1759年に別家した、9代将軍家重の次男重好(しげよし)清水徳川家を加えて御三卿が成立します。

御三卿は御三家より将軍家に近い存在として、独立した藩を持つことなく、家臣たちも幕府からの出向。将軍家の家族扱い、単なる血のリザーブとしての存在でした。これ以降将軍後継争いは陰湿を極めます。

私はここに吉宗のエゴを感じ、「名君」「中興の英主」と彼を手放しでほめることに抵抗を感じるのです。
御三卿は将軍家の家族、部屋住みの存在です。独立した藩を持っていない。ですから彼らは将軍位を渇望し、あれこれ陰謀を張り巡らせました。
これが御三家なら、宗春のように自分の領地で自分の政治を行うという目標、存在意義があるのですが、御三卿にはそれがありません。将軍位につけなければ無用の存在なのです。そして将軍家に不幸があったときだけ、存在意義が出てくるのです。
幕末、将軍家最大の後継者争いが安政の大獄につながり、多くの人を巻き添えにしました。あそこまで陰惨を極めた後継者争いの責任の一端は、吉宗のエゴにあるといってよいでしょう

一橋家の進出

さて、将軍家の不幸は尾張家の不幸とほとんど同じ時期に起こりました。
10代将軍家治(いえはる)の長子、家基(いえもと)は聡明をうたわれていましたが、18歳のとき、狩りに出かけた帰路、体調不調を訴え急死します。一説には家基の聡明さを嫌った田沼意次の陰謀だと言われています。もっとも家治、家基に死なれて一番困ったのは田沼なのですから、この説は根拠が弱い。
もしも、もしも家基の死が陰謀であるとするなら、その一番の容疑者は一橋徳川家の治済(はるずみ)でしょう。系図をご覧になればお分かりのように、彼の子供や孫は将軍家、大名家の後継となり、一番得をしております。
あの有名な松平定信を田安家から他家へ無理やり養子に出したのも、古くは田沼の陰謀といわれていましたが、最近ではこの治済が黒幕であるとされています。

こうして治済、および一橋家は将軍家、田安徳川家、尾張徳川家を支配することに成功しました。
そして、11代将軍となった家斉(いえなり)歴代最多の56人の子供をもうけ、その大半は早世するも、たくさんの子女が大名家の養子となったり、大名家へ嫁いでゆきました。
こうして紀伊家、もっといえば一橋家の血統が全国に張り巡らされることとなりました。

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全国の大名の苦難は相当のものでした。将軍の子女を養子、または嫁に迎えることは莫大な支出を意味したからです。
有名な東大の赤門は、加賀藩前田家が家斉の娘、溶姫を迎えるために造った物です。
将軍、老中も子女の受け入れ先を見つけるのに苦労し、受け入れた家には家格の上昇をもって報いるなどしました。
by fouche1792 | 2005-10-29 02:13 | 尾張徳川十七代