番外 血統の断絶とは
2005年 10月 22日
昨日(10月21日)朝日新聞一面に皇室典範改正についての記事が載ってました。
10月21日 朝日新聞 傍線引用者
これに反対する学者、文化人が、「皇室典範を考える会」(代表=渡部昇一・上智大名誉教授)を結成し、慎重審議を求める声明を発表しました。
「(男系継承という)有史以来の皇室の伝統を継承し守っていく姿勢こそが大前提」
*記事の全文はこちらとこちら
「男系継承」。確かに古代~近世に女性天皇がいましたが、いずれも「皇族」、つまり男親を通じて天皇につながる血筋を持っていました。そして彼女らは(独身者もいましたが)子をなし、皇位を継がしめていることもありますが、いずれの場合も皇族と結婚しているため、子どもはやはり父方でも天皇につながっています。
イギリスは男系継承にこだわっていません。ノルマンコンケスト以来いくつかの王朝が交代していますが、父方か母方のどちらかをつうじて前王朝とつながっています。
現在ヨーロッパにはいくつかの君主国がありますが、女系継承をみとめています。
しかし中世では女系継承を認めていない家も多く存在しました。例えばフランス。フランスには女王はいません。血統が絶えたときも男系の継承でつづいています。
*「サリカ法」という記事を書いたので、参照してください。
男系継承にこだわる心理は分かるような気がします。
戦後、民主化された現代では「家」の概念はかなり薄れていますが、それでもわれわれは家族を形成し、世代の異なる血縁集団の中である程度体験を共有しています。
先人が死んだ後、彼らとの記憶を守り、彼らが完全に地上から消えてゆくのを防いでいます。
有形無形の財産を受け継いでゆくのです。
例えば位牌を守る、というのがそれですね。そして多くの場合、女性は他家に入りますから、残った男子がそれを受け継いでいます。
もちろん、受け継ぐのは男性でも女性でもかまわないのです。
血統というのは現代ではさほど意識されていませんが、近代以前にはかなり重要視されてました。特別な血統にはパワーが受け継がれていると考えられていたようです。
よく誤解されていますが、源頼朝は源氏の嫡流ではありません。源氏の中でもランクの低い清和源氏の傍流、河内源氏の流れです。
それでも頼朝が生きている時代から彼の血統は特別視されていました。八幡太郎義家の血を受け継ぎ、さらに保元の乱で活躍した義朝の血を受け継いでいるのですから。そして彼自身が成功を収めたことで、ますます彼の血統は特別視されるようになりました。
ところで血統という観点でみれば、男系も女系も、その条件を等しくしています。
女子も男子も等しく親の、そして先祖の血を受け継いでいるのですから。
周知のように源氏将軍は三代で滅びます。
最初は皇族将軍を希望していた北条氏でしたが、それが不可能となるや摂家将軍を迎えました。
四代将軍に迎えられたのは摂家の九条頼経(よりつね)。
彼は女系で義朝に連なっています。
(クリックしていただくと見やすくなります)
彼に白羽の矢が立ったのは、血統だけでなく、親幕府の九条家出身であることも大きかったでしょうが。
さらに頼経は二代将軍頼家の遺児、竹御所鞠子と結婚しています。これは完全な政略結婚で、当時頼経13歳、鞠子は28歳(!)。15歳年上の夫人でした。
この結婚は何を意味するのでしょうか。
なぜ北条氏は鞠子を28歳まで独身でいさせたのでしょうか。
もちろんこの結婚には、頼朝の血統を継がしめるという意味があります。
さらに鞠子は北条政子亡き後、鎌倉幕府の精神的主柱であったようなのです。各種のセレモニーなどに出席していて、その席順からわかるそうです。
つまり実朝亡き後源家を受け継いだのはこの鞠子であったようなのです。
頼経は女系で血統的に源家に連なっているとはいえ、少し遠い。ですからさらに鞠子を通じて源家につながりを持たせたのでしょう。そして鞠子から源家を、鎌倉家を受け継がせたのでしょう。
この時点で皇族将軍が実現していたとしても、その彼は鞠子と結婚していたでしょう。
皇室の伝統はどうか知りませぬが、少なくとも中世武家においては女系も重要視されていたのです。
鞠子は32歳で懐妊しましたが、母子ともに死亡。
こうして神聖なる頼朝の血は鎌倉幕府から失われたのでした。
尾張家では藩祖義直の血統が九代宗睦で絶えてしまいます。
では、あれほど沢山いた宗勝(八代)、吉通(四代)、光友(二代)たちの子女はどうなったのでしょうか。彼らの子孫はどこに行ったのでしょうか。
次回も番外編。藩祖義直の血統を求めてみます。
小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が、皇位継承順位について、男女を問わない「第1子優先」とし、女性が天皇になることや母方だけに天皇の血筋を引く女系天皇を容認するとの方針を固めた。こうした方針をとれば、皇位継承の資格者が増え、順位の変動が少ないことを考慮した。25日から意見集約に入り、11月末に報告書をまとめ、首相に答申する。政府は世論の動向を見極めながら、皇室典範の改正を目指す。
(中略)
第1子優先案が採用されると、現状にあてはめれば、皇太子さまの長女の敬宮愛子さまが皇位継承者になる。しかし、6日に学者グループが、敗戦直後に皇籍離脱した旧皇族の復帰を求める「緊急声明」を出すなど、世論には「男系男子」の維持を求める声もある。
有識者会議は25日から始まる意見集約で、こうした世論の動向も慎重に見極める方針だ。委員の間では「男子が生まれれば世論も変わるかもしれない」との議論もある。
(以下略)
10月21日 朝日新聞 傍線引用者
これに反対する学者、文化人が、「皇室典範を考える会」(代表=渡部昇一・上智大名誉教授)を結成し、慎重審議を求める声明を発表しました。
「(男系継承という)有史以来の皇室の伝統を継承し守っていく姿勢こそが大前提」
*記事の全文はこちらとこちら
「男系継承」。確かに古代~近世に女性天皇がいましたが、いずれも「皇族」、つまり男親を通じて天皇につながる血筋を持っていました。そして彼女らは(独身者もいましたが)子をなし、皇位を継がしめていることもありますが、いずれの場合も皇族と結婚しているため、子どもはやはり父方でも天皇につながっています。
イギリスは男系継承にこだわっていません。ノルマンコンケスト以来いくつかの王朝が交代していますが、父方か母方のどちらかをつうじて前王朝とつながっています。
現在ヨーロッパにはいくつかの君主国がありますが、女系継承をみとめています。
しかし中世では女系継承を認めていない家も多く存在しました。例えばフランス。フランスには女王はいません。血統が絶えたときも男系の継承でつづいています。
*「サリカ法」という記事を書いたので、参照してください。
男系継承にこだわる心理は分かるような気がします。
戦後、民主化された現代では「家」の概念はかなり薄れていますが、それでもわれわれは家族を形成し、世代の異なる血縁集団の中である程度体験を共有しています。
先人が死んだ後、彼らとの記憶を守り、彼らが完全に地上から消えてゆくのを防いでいます。
有形無形の財産を受け継いでゆくのです。
例えば位牌を守る、というのがそれですね。そして多くの場合、女性は他家に入りますから、残った男子がそれを受け継いでいます。
もちろん、受け継ぐのは男性でも女性でもかまわないのです。
血統というのは現代ではさほど意識されていませんが、近代以前にはかなり重要視されてました。特別な血統にはパワーが受け継がれていると考えられていたようです。
よく誤解されていますが、源頼朝は源氏の嫡流ではありません。源氏の中でもランクの低い清和源氏の傍流、河内源氏の流れです。
それでも頼朝が生きている時代から彼の血統は特別視されていました。八幡太郎義家の血を受け継ぎ、さらに保元の乱で活躍した義朝の血を受け継いでいるのですから。そして彼自身が成功を収めたことで、ますます彼の血統は特別視されるようになりました。
ところで血統という観点でみれば、男系も女系も、その条件を等しくしています。
女子も男子も等しく親の、そして先祖の血を受け継いでいるのですから。
周知のように源氏将軍は三代で滅びます。
最初は皇族将軍を希望していた北条氏でしたが、それが不可能となるや摂家将軍を迎えました。
四代将軍に迎えられたのは摂家の九条頼経(よりつね)。
彼は女系で義朝に連なっています。
(クリックしていただくと見やすくなります)
彼に白羽の矢が立ったのは、血統だけでなく、親幕府の九条家出身であることも大きかったでしょうが。
さらに頼経は二代将軍頼家の遺児、竹御所鞠子と結婚しています。これは完全な政略結婚で、当時頼経13歳、鞠子は28歳(!)。15歳年上の夫人でした。
この結婚は何を意味するのでしょうか。
なぜ北条氏は鞠子を28歳まで独身でいさせたのでしょうか。
もちろんこの結婚には、頼朝の血統を継がしめるという意味があります。
さらに鞠子は北条政子亡き後、鎌倉幕府の精神的主柱であったようなのです。各種のセレモニーなどに出席していて、その席順からわかるそうです。
つまり実朝亡き後源家を受け継いだのはこの鞠子であったようなのです。
頼経は女系で血統的に源家に連なっているとはいえ、少し遠い。ですからさらに鞠子を通じて源家につながりを持たせたのでしょう。そして鞠子から源家を、鎌倉家を受け継がせたのでしょう。
この時点で皇族将軍が実現していたとしても、その彼は鞠子と結婚していたでしょう。
皇室の伝統はどうか知りませぬが、少なくとも中世武家においては女系も重要視されていたのです。
鞠子は32歳で懐妊しましたが、母子ともに死亡。
こうして神聖なる頼朝の血は鎌倉幕府から失われたのでした。
尾張家では藩祖義直の血統が九代宗睦で絶えてしまいます。
では、あれほど沢山いた宗勝(八代)、吉通(四代)、光友(二代)たちの子女はどうなったのでしょうか。彼らの子孫はどこに行ったのでしょうか。
次回も番外編。藩祖義直の血統を求めてみます。
by fouche1792
| 2005-10-22 02:42
| 尾張徳川十七代