4代 徳川吉通 なぞの殿様
2005年 09月 30日
<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>
同じような名前ばかり出てくるので、ややこしいですね。
家宣死去(1712年)時点での系図を作ってみたので参照して下さい。
徳川吉通(よしみち)は三代藩主徳川綱誠(つなのぶ)の9男として誕生しました。9番目の男子である彼が家督を継いだのは、それ以前に生まれた子供がみな早世したからであります。
綱誠という人は子沢山で、なんと21男17女、計38人の子供をもうけています。尾張家歴代でもトップです。
しかし、この38人の中で綱誠の死後も生き残り、成人まで育ったのはわずか6人。
吉通、通顕(みちあき、後の6代藩主継友)、義孝(尾張家分家高須松平家を継ぐ)、通温(みちまさ)、通春(後の宗春)、そして松姫(加賀藩主前田吉徳室)。
これ以外はほとんどが1~3歳(数え年。満で言うと0~2歳)で死去しています。
(ちなみに末っ子の松姫は綱誠が48歳で死んだ半年後に生まれております。)
この時代、特に大名家の乳幼児の死亡率は高く、11代将軍家斉も歴代最多の55人の子供をもうけましたが、そのうちの34人が早世しています。
これは当時の医学レベルが低かったこともありますが、一番大きな原因は乳母たちが胸までぬっていた白粉に鉛が含まれていたためだそうです。
身分が高いのがあだになるとは、何と皮肉なことなのでしょう。
それにしても綱誠の胸中はいかばかりであったか。
子供ができても片っ端から死んでゆく。
当時の大名の重要な使命は跡継ぎをもうけることでした。綱誠はあせったでしょう。
まるで女王蜂か女王蟻のように次々に子供をもうけていくさまは哀れでさえあります。
(ですから、私は秀吉の女漁りを一概にとがめられないのですが。。。)
今で言えば
「あそこの嫁はまだ子供を生まんのか」
みたいなものすごく失礼な陰口がたたかれ、プレッシャーを感じていたでしょうね。
そんな中でやっと育った吉通。
四歳で(兄たちが死んでしまったため、)嫡男として扱われ、名前をそれまでの藪太郎→吉郎から、尾張家嫡男の証、五郎太と改めます。七歳で嫡男としてお披露目されます。
しかし、彼が元服したのは11歳のとき。先日申しましたように将軍綱吉から一字をもらい吉通と名乗るのですが、これは父綱誠の死去があったため。それにしても遅い元服です。
元服とは今で言う成人式のことですが、この時代の大名家では嫡男はとにかくはやく元服させ、当主がいつ死んでもいいように準備するのが普通。吉通の祖父光友は9歳、父綱誠は6歳で元服しています。
これはやはりどこまで育つか不安だったからではないでしょうか。
吉通の前では6歳まで生きていたのが最も長生きでした。吉通の弟にはせっかく12歳までそだったにもかかわらず、早世した者もいます。
吉通を語る場合、まずこのガラスの置物を扱うかのような大切な育てられ方は無視できないと思います。
吉通は宗春のような個性にあふれた殿様ではありません。記録をたどってみても彼がどんな人物だったか、あまりわかりません。これもその育ちゆえかと思われます。
吉通については英邁であった、というものもあれば、暗愚であった、というものもあります。
例えば『元禄御畳奉行の日記』で有名になった、尾張藩士朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」に描かれているのはこんな姿です。
・無類の酒飲みで、東海道53次の宿名をつけた杯53杯を次々と飲んだ。しかも、「上り」「下り」と称して何往復もした。
・水練(水泳)をするためにプール(大きな桶でしょう)を作ったが、水が冷たいので湯を沸かさせ、入れた。しかもプールが漏れていたため、せっかく作ったのにすぐやめてしまった。
なんとまあ、あきれるバカ殿さまではありませんか。
もっとも朝日文左衛門が書いたのはあくまで噂。しかも下級武士の耳に届く噂ですから真偽のほどは定かではありません。
それでも下級の家臣にまで変な噂をささやかれるほど吉通がだらしないか、当時の尾張藩がゆるんでいた、とも言えます。
そんなこんなでなぞの多い吉通ですが、はっきり言えば影が薄い。
11歳で藩主となった、ということですから、政治ができるわけはありません。
彼を支え、藩政を見たのは叔父の松平義行(よしゆき)でした。
吉通の名君という評判は義行の功かもしれません。多分そうでしょう。
ここら辺はやはり11歳で家督を継いだ4代将軍家綱と叔父の保科正之(ほしな・まさゆき:家光の異母弟で、会津松平家祖)の関係にそっくりです。そういえば家綱も影の薄い将軍でした。
大切な跡取りとして乳母日傘で育てられ、影の薄かった吉通。
家綱以外にもう一人思い当たる人物がいます。
そう、豊臣秀頼。秀頼には淀殿という個性の強いお母さんがいて、その影に隠れてますが、吉通にもそれはそれは個性的なお母さんがいたのです。
次回「恋多き母となぞの死」でお話しましょう。
同じような名前ばかり出てくるので、ややこしいですね。
家宣死去(1712年)時点での系図を作ってみたので参照して下さい。
徳川吉通(よしみち)は三代藩主徳川綱誠(つなのぶ)の9男として誕生しました。9番目の男子である彼が家督を継いだのは、それ以前に生まれた子供がみな早世したからであります。
綱誠という人は子沢山で、なんと21男17女、計38人の子供をもうけています。尾張家歴代でもトップです。
しかし、この38人の中で綱誠の死後も生き残り、成人まで育ったのはわずか6人。
吉通、通顕(みちあき、後の6代藩主継友)、義孝(尾張家分家高須松平家を継ぐ)、通温(みちまさ)、通春(後の宗春)、そして松姫(加賀藩主前田吉徳室)。
これ以外はほとんどが1~3歳(数え年。満で言うと0~2歳)で死去しています。
(ちなみに末っ子の松姫は綱誠が48歳で死んだ半年後に生まれております。)
この時代、特に大名家の乳幼児の死亡率は高く、11代将軍家斉も歴代最多の55人の子供をもうけましたが、そのうちの34人が早世しています。
これは当時の医学レベルが低かったこともありますが、一番大きな原因は乳母たちが胸までぬっていた白粉に鉛が含まれていたためだそうです。
身分が高いのがあだになるとは、何と皮肉なことなのでしょう。
それにしても綱誠の胸中はいかばかりであったか。
子供ができても片っ端から死んでゆく。
当時の大名の重要な使命は跡継ぎをもうけることでした。綱誠はあせったでしょう。
まるで女王蜂か女王蟻のように次々に子供をもうけていくさまは哀れでさえあります。
(ですから、私は秀吉の女漁りを一概にとがめられないのですが。。。)
今で言えば
「あそこの嫁はまだ子供を生まんのか」
みたいなものすごく失礼な陰口がたたかれ、プレッシャーを感じていたでしょうね。
そんな中でやっと育った吉通。
四歳で(兄たちが死んでしまったため、)嫡男として扱われ、名前をそれまでの藪太郎→吉郎から、尾張家嫡男の証、五郎太と改めます。七歳で嫡男としてお披露目されます。
しかし、彼が元服したのは11歳のとき。先日申しましたように将軍綱吉から一字をもらい吉通と名乗るのですが、これは父綱誠の死去があったため。それにしても遅い元服です。
元服とは今で言う成人式のことですが、この時代の大名家では嫡男はとにかくはやく元服させ、当主がいつ死んでもいいように準備するのが普通。吉通の祖父光友は9歳、父綱誠は6歳で元服しています。
これはやはりどこまで育つか不安だったからではないでしょうか。
吉通の前では6歳まで生きていたのが最も長生きでした。吉通の弟にはせっかく12歳までそだったにもかかわらず、早世した者もいます。
吉通を語る場合、まずこのガラスの置物を扱うかのような大切な育てられ方は無視できないと思います。
吉通は宗春のような個性にあふれた殿様ではありません。記録をたどってみても彼がどんな人物だったか、あまりわかりません。これもその育ちゆえかと思われます。
吉通については英邁であった、というものもあれば、暗愚であった、というものもあります。
例えば『元禄御畳奉行の日記』で有名になった、尾張藩士朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」に描かれているのはこんな姿です。
・無類の酒飲みで、東海道53次の宿名をつけた杯53杯を次々と飲んだ。しかも、「上り」「下り」と称して何往復もした。
・水練(水泳)をするためにプール(大きな桶でしょう)を作ったが、水が冷たいので湯を沸かさせ、入れた。しかもプールが漏れていたため、せっかく作ったのにすぐやめてしまった。
なんとまあ、あきれるバカ殿さまではありませんか。
もっとも朝日文左衛門が書いたのはあくまで噂。しかも下級武士の耳に届く噂ですから真偽のほどは定かではありません。
それでも下級の家臣にまで変な噂をささやかれるほど吉通がだらしないか、当時の尾張藩がゆるんでいた、とも言えます。
そんなこんなでなぞの多い吉通ですが、はっきり言えば影が薄い。
11歳で藩主となった、ということですから、政治ができるわけはありません。
彼を支え、藩政を見たのは叔父の松平義行(よしゆき)でした。
吉通の名君という評判は義行の功かもしれません。多分そうでしょう。
ここら辺はやはり11歳で家督を継いだ4代将軍家綱と叔父の保科正之(ほしな・まさゆき:家光の異母弟で、会津松平家祖)の関係にそっくりです。そういえば家綱も影の薄い将軍でした。
大切な跡取りとして乳母日傘で育てられ、影の薄かった吉通。
家綱以外にもう一人思い当たる人物がいます。
そう、豊臣秀頼。秀頼には淀殿という個性の強いお母さんがいて、その影に隠れてますが、吉通にもそれはそれは個性的なお母さんがいたのです。
次回「恋多き母となぞの死」でお話しましょう。
by fouche1792
| 2005-09-30 13:04
| 尾張徳川十七代