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江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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4代 徳川吉通   将軍の後継になりかけた男

<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>

愛知万博も終わりました。なぜか列車「エキスポシャトル」は今も走っていますが。。。
開催まで紆余曲折していましたが振り返ってみれば大盛況。たくさんの方が名古屋を訪れました。
思えば1988年、名古屋は「名古屋にオリンピックを」と異様なまでに盛り上がり、激しい招致合戦の結果最終的にソウルに決まり、激しく落ち込みました。今回の万博でイベント招致に成功しても開催まではどこか冷めた雰囲気があったのはそのせいでしょうか?


さて江戸時代中期、宗春登場以前にも同じように名古屋は挫折を味わっています。
ここで宗春以前の名古屋の殿様のお話しをしましょう。

生類憐みの令」で庶民を苦しめた「犬公方」五代将軍徳川綱吉の後を継いだのは、甥の徳川家宣(いえのぶ)。彼は温和で学問好きな君主として知られ、学問の師新井白石、側近の間部詮房(まなべあきふさ)を登用。積極的に政治の刷新を図りました。

家宣の人柄を表すこんなエピソードがあります。
綱吉は死に際して、
「生類憐みの令は子々孫々守ってゆくようにせよ」
と遺言しました。しかし生類憐みの令でたくさんの人が迷惑しているのは家宣も知っています。家宣は綱吉死後さっそくこの令を廃止し、庶民の喝采を得ました。このとき八千人以上の人が獄から解放されたそうです。
これは大胆なことでした。なぜなら、当時の学問・道徳の根源であった儒教ではなにより「孝」、親孝行を重んじています。遺言を守らないのは最大の不孝。
先代の遺言を守るか、民の幸福を図るか、まじめな家宣の答えは決まっていました。

「先代のご遺言ゆえ、自分ひとりは生涯この令を守ってゆこう。
しかし、生類憐みの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。余は天下万民のために、あえて遺命に背くこととする。
自分ひとりが守ることによって、先代にも申し訳が立とう」

叔父の綱吉に嫌われなかなか後継に指定してもらえず、48歳になってやっと将軍になった我慢強い苦労人でした。

ですがもともと体の弱かった家宣は将軍にあることわずか4年でこの世を去ります。跡継ぎの息子、鍋松は当時わずか4歳(数え年なので、満年齢では2,3歳)。
死の一か月ほど前、将来を憂えた家宣は新井白石を病床の枕元に呼び、相談します。

「天下のことは私すべきではない。跡継ぎが無くはないが、幼いものを立てて世を騒がしくした例も多い。
そこで余の跡は尾張の吉通(よしみち)殿に譲ってはどうか。ないしは鍋松に継がせておき、尾張殿を西の丸に入れて後見とし、政治を任せるか。
どちらがよいであろうか」

白石は即座に答えました。

「ご立派なご配慮ではございますが、どちらも必ずしも適切とは存じませぬ。
お跡継ぎが二、三に分れたときの派閥の争いが世を騒がせました例は、不幸にも過去に繰返されて参りました。上様(家宣)のお世継ぎに鍋松君がおありなのに尾張様の名があがれば、心無く二た手に動きだす者もできて参りましょう。
御三家をはじめ御一門の方々、譜代の御家来がかくお揃いのうえ、守り立てますれば、若君が御代を継がれまして何のご懸念がありましょうか」
「幼い者に万一のことがあれば」
「その為に神君(家康)は、御三家をお立てになりました」

その言葉に家宣も安心し、1712年死去。こうして鍋松が七代将軍となり、家継(いえつぐ)と名乗りました。

ここで家宣の後継にと言われた尾張吉通こそ、宗春の兄、四代尾張藩主徳川吉通その人です。彼が長生きしていたら確実に将軍家を継いだであろうことは多くの学者も認めています。

そして家継はこれも在位4年、1716年、わずか8歳(満年齢では6,7歳)で世を去り、八代将軍の座を巡って尾張と紀伊の争いが始まるのです。

ではその吉通はどんな人物だったのでしょうか。そしてなぜ将軍になれなかったのでしょうか。


次回「4代 徳川吉通 なぞの殿様」に続きます。


 
by fouche1792 | 2005-09-28 13:56 | 尾張徳川十七代