江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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将軍家と尾張家の争いと言えば、吉宗宗春が有名ですが、実は初代義直も何度か家光と衝突したことがあります。

先に見たような両者の性格の違いもあるでしょうが、何よりも「生まれながらの将軍」として、全ての諸大名を家臣化していった幕府の方針とぶつかったのです。
もちろん義直は

「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」

との家康の遺言を忘れたわけではありません。諸大名のトップとして、率先して将軍家を守り立てるつもりでした。
しかし甥(わずか4歳差ですが)の高飛車な仕打ちに、彼の自負心が何度も傷つけられます。


将軍家ご危篤

寛永10年(1633年)に家光が病気になりました。病状は芳しくなく、危篤との噂が流れました。そのころはまだ嫡男家綱が生まれておりませんでしたので、万が一のことがあれば将軍家が途絶えてしまいます。
このとき行動を起こしたのが義直。急遽江戸へ向かいます。
あわてた幕府首脳。

「なぜ許可もなく江戸へ参られたのですか」
「今、将軍家にお子無し。家系が途絶えるのは天下の一大事ではないか」

つまり自分の出番だ、というのですね。
とはいえ、いくら義直と言えど許可なく江戸へ入れるものではなく、すごすごと引き返すことに。
この時より

「尾張殿に謀反の意あり」

と睨まれ、警戒されるようになりました。

事実この時期には、外様大名で将軍家に逆らえる実力のあるものは一人もおりません。あまたの大名が改易の憂き目に会った中で、尾張、紀伊の両家が最大の大名として残ってしまいました。将軍家に次ぐ格式と経済力を持って。

義直に野心があったかどうか。私なりの推測をお許しくだされば、彼は将軍家にとって代わるまでは思っていなかったでしょう。生来の四角四面ゆえに、天下騒乱を未然に防ぐために江戸へ下ったのだと思います。
しかしながら、はたから見れば「野心あり」とされても言い訳できない行動でありました。

鎌倉時代にも同じようなことがありました。
1193年、富士の巻き狩りで有名な曽我兄弟のあだ討ちが起こったときのこと。
この時頼朝も殺されてしまった、との風聞が鎌倉に伝わりました。
嘆き悲しむ北条政子

「後にはそれがしがおりますから、安心めされい」

と言ったのが弟の範頼(のりより;義朝の六男で、頼朝の弟、義経の兄)。
この一言が原因で、実は死んでいなかった頼朝に

「将軍位を狙っているのでは」

疑われ、伊豆修善寺に押し込められ、やがて殺されてしまいます。

これを考えると、義直の行動はやはり軽率であったと言うしかありません。


名古屋城篭城

寛永11年(1634年)、家光は京へ上ることになり、その帰路、名古屋へ立ち寄ることを義直に告げました。
将軍のおなりとなれば、それは家門の誉れ。門や屋敷を新築するのがならいです。義直も城内の本丸御殿を改修。新たに御成書院(上洛殿)や御湯殿などが造られました。

ちなみに江戸時代の大名は天守閣に住んでいたわけではありません。城内の御殿に住み、そこで政務を執っていました。名古屋城にはかつて本丸御殿(戦前は天守閣とともに国宝)と二の丸御殿、二つの御殿がありました。本丸御殿は将軍家のおなり御殿として使用されるようになり、藩主は以後二の丸御殿に住むようになりました。将軍家の立ち寄る本丸御殿はたいそう豪華だったそうです。戦災で消失したのが惜しまれます。

ところが家光は急遽予定を変更。名古屋城には立ち寄らないことに。
おそらくは前年のしこりが残り、警戒していたのでしょう。
これには義直、面目丸つぶれ。莫大な費用と手間をかけて御殿を改築したのもすべて無駄。
将軍家に弓引くことは父の遺言にそむくことですが、義直にも武士の意地があります。

そこで弟の頼宣(よりのぶ;紀伊家初代)に胸のうちをぶちまけます。

「このたびのお上のなされようはあまりにもひどい。おかげで私は天下の笑いもの。骨を折った家臣、領民たちにも申し訳が立たぬ。かくなる上は名古屋城に篭城して、一矢報いようと思う」

驚いた頼宣。父の遺言を忘れたのかと、必死に説得しますが、義直は聞きません。

「私にも意地というものがある」
「しかし、たとえ名古屋城が天下の名城といえど、将軍家ならびに全国の諸大名を敵に回しては勝ち目はありますまい」
「命が惜しいのではない。名が惜しいのだ」

そこで頼宣、はらはらと涙を流し

「兄上がそこまで覚悟なされているならば、もはや止めはいたしません。しかしながら、戦うからには勝たねばなりません。これぞ真の武士と言うもの。ならば篭城は下策。勝ち目のない戦を仕掛けて死んでしまってはそれこそ天下の笑いものとなりましょうぞ。
かくなる上は城より打って出て、将軍家帰路の途中を攻めませい。及ばずながら私めも兵を挙げます。ともに戦いましょうぞ。もし勝てれば天下は我らのもの。敗れれば、兄弟揃っていさぎよく果てましょう」

驚いた義直。弟の誠心に涙を浮かべながら、

「当家のために、そなたまで巻き添えにするわけにはいかぬ。それこそ神君(家康)に申し訳が立たぬ。ここは忍従しよう」
「わかってくださりましたか」

こうして将軍家光は無事江戸に帰ることができました。
後には将軍位を激しく争うことになる尾張と紀伊ですが、この時代にはまだ兄弟の間柄。近しい存在でありました。


竹千代

さて、長い間子宝に恵まれなかった家光にも1641年に嫡男が誕生します。
*家光に長い間子がなかったのは、男色にふけっていたからだそうです。>春日の局も痛く心配して、何人もの美女を大奥に送り込んだそうです。
春日の局が家光に寄せた愛情はまことに厚いもので、母にあまり愛されなかった家光を慈しみました。食べ物の好き嫌いが激しかった彼のために、わざわざ五色のご飯を作らせたこともあったそうです。

将軍家嫡男の名前は竹千代。後の四代将軍家綱です。
この竹千代の山王社初詣の際三家も供奉を命じられました。これにカチンと来たのが義直。

「大納言である私が、無位無官の竹千代様に供奉はできない」

しかし、はいそうですか、では済まされません。老中(知恵伊豆こと松平信綱)はなんとかなだめようとします。

「とはいえ、竹千代様は将軍家のお子でございます」
「親の官位が尊いというのならば我らこそ太政大臣の子ではないか」
「上様のためです。そこは曲げて、お供してもらいたい」
「典礼を曲げることはかえってお上のためにならぬ」

こうして義直らは山門で竹千代を迎え、そこから一緒したそうです。



う~む。こうやって書いてみると、どうも義直の分が悪いですねえ。
確かに礼儀を重んじ、皇室を尊び、理を曲げないのはいいことでしょうが、彼は意地を張りすぎました。ちょっと大人気ないですね。

とはいえ、家光の方も態度に問題はありました。

当初義直たちは「尾張様」、「紀伊様」と呼ばれておりました。
これにむっとしたのが家光。「上様」である自分と同じ様づけとは何事だ、と気色ばんだといいます。
この頃から「尾張殿」「紀伊殿」と殿づけでよばれることに。

義直が1650年に病死したことは先日書きました。
この時も家光はあっさりしたもので、わずかな日数のうちに、紀伊家、水戸家に

「これで早々に精進落としをなされい」

と生臭物を賜ったそうです。

どこまでもそりの合わぬ二人でした。

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# by fouche1792 | 2006-02-25 22:43 | 尾張徳川十七代

番外 義直の顔

先日書きました義直の肖像です

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# by fouche1792 | 2006-02-23 10:11 | 尾張徳川十七代
義直の人柄

尾張家初代義直(よしなお)は、よく言えば謹厳実直、悪く言えば頑固者で面白みがない人でした。
彼の人柄を表すこんなエピソードがあります。

義直の正室は春姫。紀州藩主(後に広島藩主)、浅野幸長(ゆきなが)の娘です。外様の雄藩、そして豊臣家恩顧の大名である浅野家との結びつきを強めるための政略結婚でした。
彼女との間には長い間子供がありませんでしたので、家臣は側室を迎えるようにすすめたところ、義直はかなり渋っていたそうです。
春姫を愛していた、それもあるかもしれませんが、彼は側室を持つのは道徳的によろしくない、と思っていたのです。彼はかなり儒教に染まっていましたから。
けれども後継者問題は深刻ですから、家臣たちも引き下がれません。そこで紀伊家初代頼宣(よりのぶ)に働きかけ、頼宣の薦めもあって、やっと側室を迎えることに同意。二代藩主光友(みつとも)が生まれたのは義直26歳のときでした。

義直は眠るときも神君家康の子としての自覚を忘れませんでした。
なんと、寝返りを打つたびに脇差を置き換えていたといいます。いつ敵に襲われてもおくれをとらぬように、です。一体いつ眠っていたんだよ、と思わず突っ込みたくなります。
これは事実ではないかもしれませんが、このような風評が立つほど、彼はマジメ君だったのです。友人にするにしても、上司(主君)にするにしても、息が詰まりそうですね。

そんな義直、1650年に病死してしまうのですが、病床にふせっていても一切の不平不満を漏らさず、しかも苦痛を顔にあらわすことも、うめき声を上げることもありませんでした。
「みっともないから」
という理由で。武士として、神君家康の子として、恥ずかしくない生き方をしたい、これが彼のポリシーでした。

現在残っている彼の肖像は(私が確認したもので)2つ。一つは母お亀の方が作った木像。おそらく少年時代のもの。もう一つは壮年になった彼の画像。ただし、原本は失われ、残っているのは模写ですが。
少年時代の彼は丸顔でかわいらしいのですが、壮年の彼は本当に頑固者、といった感じです。ものすごいしかめ面をしてます。

彼の学問好きは有名で、特に儒学と神道に深く傾倒しました。水戸黄門として有名な徳川光圀(みつくに;水戸徳川家二代)はこの伯父を深く尊敬し、自身も学問に造詣が深く、後に『大日本史』編纂にかかずらうのです。
*ちなみに私は過去にとりあげたことがありますが、光圀という殿様をあまり高く評価しておりません。詳しくはコチラコチラをご覧ください。

義直の理想はかなり高く、プライドも同じくらいに高いものでした。


三代将軍家光

尾張義直・紀伊頼宣・水戸頼房(よりふさ)の三兄弟は三代将軍の家光とは叔父甥の間柄とは言え、はほとんど同じ年齢でした。

徳川義直 1600年生まれ
徳川頼宣 1602年生まれ
徳川頼房 1603年生まれ
徳川家光 1604年生まれ

家光という人は良くも悪くも典型的な三代目でありました。
幼少期にはちょっとぼんやりしたところがあったらしく、ために父秀忠、母江与の方浅井長政の娘で、淀殿の妹)は家光より弟の忠長(ただなが)を後継者に、と思っていた時期もあったようです。そうと知ってあせったのが、家光の乳母、お福。有名な春日の局そのひとであります。彼女は家康に直訴し、それがあって家光は秀忠の後継者となったのでした。
もちろん、そこは家康のこと。一女人の言うなりになったのではありません。戦国の世終わり、太平の世となった今では、後継者争いはいらぬ騒乱のもと。子供たちの資質の優劣でことを決めれば、敗者やその側近は必ず恨みを覚えるでしょう。ならば、資質など関係なく、長幼の序で決めてしまえばよい。創業期と違って安定期に入れば組織も固まり、有能な家臣が補佐するから大丈夫だろうと。まあ、こういう理屈なんですね。

家光は生涯祖父には非常に感謝してました。家康を祭った日光東照宮が今見るように豪華になったのは彼の時代ですし、日光参拝が一番多かった将軍も彼です。
逆に父母に対しては。
おそらく家光という人は表面はともかく、内面は繊細だったのでしょう。
彼は長い間素行が改まらなかったといいます。非常に派手な服を着て、夜中に城を抜け出したり、辻斬りをしたりなど、今で言うツッパリ、ヤンキーめいたこともしております。これもどこまで事実かはわかりませぬが、義直と同様、このような噂が残っていること自体が彼の性格を物語っていると言えるでしょう。

家光が三代将軍となったのは1623年。二十歳の年(年齢は数え年)。
しかし大御所として父秀忠が後ろに控えておりました。

秀忠が在世中はそれほど問題はありませんでした。
秀忠にしてみれば御三家当主たちはまだまだ子供。いかようにも扱える存在だったし、なにより律義者の彼のこと。父家康からくれぐれも頼むと言われたこともあって、三人を特別扱いしました。
ところが家光の世になってから、義直と家光の間がきな臭くなってくるのです。

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# by fouche1792 | 2006-02-21 22:23 | 尾張徳川十七代
愛知県西部、旧尾張の国には名古屋城以外にもいくつかのお城があります。
その中で日本最古の現存天守を持つ国宝犬山城はかなりユニークな存在。なにせつい先ごろまで、日本で唯一の個人所有のお城だったのです。
明治時代になり多くの城は破却されるか政府のものとなりました。犬山城は明治24年(1891年)の濃尾震災により天守の一部や城門、櫓などが壊れたため、28年にそれらを修理するという条件で、旧城主成瀬正肥(なるせ・まさみつ)に譲られました。昭和10年には国宝に指定されています。その後平成16年に財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され所有権が移るまで、個人所有の城だったのです。
犬山城主成瀬家とはどんな殿様だったのでしょうか? 江戸時代の尾張国に、徳川氏以外の大名なんていたのでしょうか?

名古屋城が完成したとはいえ、義直家康の死までは主に駿府におりました。
彼の代わりに尾張藩執政となっていたのは、平岩親吉。平岩は家康がまだ竹千代と呼ばれていた頃、今川義元の人質であった頃に小姓として仕えた股肱の臣でありました。尾張藩家老として任命され、犬山城10万石に封ぜられます。
10万石といえば中級大名クラス。ですが彼は義直の家老として尾張藩の基礎を固めました。
大大名には万石以上の領地を持つ家臣がいることがあります。例えば加賀102万石を領する前田家には「八家」と称される万石以上の重臣がおりました。ですがかれらはあくまで家臣であり、将軍から見れば陪臣(ばいしん=また家来)であります。

親吉は慶長16年(1611年)に亡くなりました。子どもはなく、平岩家は絶家となります。
その跡を継いで犬山城主兼尾張藩執政となったのが家康側近の成瀬正成(まさなり)
後に義直の異父兄である竹腰正信とともに尾張藩の御付家老と呼ばれました。

つけがろう ―がらう 3 【付家老】
江戸時代、幕府から親藩へまたは大名の本家から分家へ、監督・補佐のために派遣された家老。
三省堂提供「大辞林 第二版」より


御三家にはそれぞれ将軍家より御付家老が派遣されました。

尾張家……成瀬正成(尾張犬山35,000石)・竹腰正信(美濃今尾30,000石)
紀伊家……安藤直次(紀伊田辺38,000石)・水野重央(紀伊新宮35,000石)
水戸家……中山信吉(水戸松岡25,000石)


彼らは特に「五家」と称されました。
御付家老は万石以上の領地を持ちながら、独立した大名ではなく陪臣でした。江戸時代初期にはそれでも大名並みの待遇を受けていましたが、時代が下るにつれてそれもなくなりました。
五家の者たちにとって独立した大名になることは悲願となります。そしてそれが達成されたのは明治元年(1868年)。しかしすぐに版籍奉還、廃藩置県となりました。

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# by fouche1792 | 2005-11-14 16:41 | 尾張徳川十七代
徳川義直は慶長5年(1600年)に家康の九男として生まれました。母は側室お亀の方(相応院)。お亀の方は元は竹腰正時の妻で、夫と死別後(離縁させられたという説もあります)家康の側室となりました。
異父兄に後に尾張藩附家老となる竹腰正信、同父兄には夭折した仙千代がいます。
幼名は千千代といいましたが、後に五郎太と改めました。城を築く時に楔(くざび)として打ち込む石を五郎太石(ごろたいし)といいます。石垣の大きな石と石の間につめます。家康は義直が天下の楔になるように、という願いを込めて五郎太と名付けたそうです。この五郎太という幼名は、将軍家の竹千代のように、尾張家嫡男の幼名となります。
義直が生まれたとき家康はすでに59歳。関が原の戦いに勝利し、天下を手中にしておりました。

4歳で甲府城主、8歳で兄松平忠吉病死により、清洲城主となります。まだ幼少であったため駿府の家康の下で養育され、藩政は傳役の平岩親吉(犬山城主)が見ました。
家康は尾張を大坂の豊臣家および西国大名に対する防壁として重要視し、清洲城では手狭なため、慶長14年(1609年)に名古屋へ遷府。そして加藤清正福島正則など豊臣恩顧の西国大名20家に命じて名古屋城を築かせました。このように天下人が諸大名に命じて工事を負担させる築城を天下普請といいます。豊臣秀吉の大阪城なども天下普請で築かれた城です。
天下普請には豊臣系大名の財力をそぐという目的もありました。
度重なる負担に福島正則は思わず愚痴をこぼしたといいます。

「近年江戸城、駿府城と築城が続いている。江戸城は将軍家の、駿府城は大御所の居城ゆえ仕方ないが、庶子の居城まで手伝わせるとはあんまりだ」

これを聞いた親友の加藤清正は

「不平があるなら国に戻り、兵を備えるがよろしい」

とさとしたそうです。

多くの人員と費用をかけた城は慶長19年(1614年)にほぼ完成。更なる拡張を計画されていましたが、翌年には豊臣氏が滅んだため、実行には移されませんでした。

名古屋城といえば

伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ

という言葉で有名です。実はこれ、もともとは

石はつって持つ、つって石持つ、尾張名古屋は城でもつ

という言葉だったとか。石垣に使う巨石を二艘の船と船の間につって、川で運んだ様子をうたった言葉だそうです。
名古屋城は天下の名城として名高く、その巨大な天守閣と華麗な本丸御殿は戦前国宝とされていました。
姫路城の巨大な天守閣と二条城の華麗な御殿が両方そろっていたのと同じようなものです。
(私のプロフィール欄にある白黒写真が戦前の天守閣と本丸御殿です)
しかしながら昭和20年(1945年)5月14日、戦災によりわずかの門、櫓を残し消失。あと3ヶ月すれば終戦でしたのに。

現在名古屋では名古屋城本丸御殿復興のための募金が行われております。

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# by fouche1792 | 2005-11-12 23:23 | 尾張徳川十七代

清洲城主 松平忠吉

御三家は徳川の名乗りを許され、将軍家に跡継ぎ無き時の控えとして立てられた、というのが教科書的な説明です。

ですがこれはあくまで結果論でして、家康の子の家系で幕末まで続いたのが尾張・紀伊・水戸の3つであったにすぎません。
(他に次男の家系、福井松平家もありましたが、松平の名乗りで、御三家より地位の低い「御家門」でした)。
家康には他にもたくさんの子がいました。
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↑クリックすると拡大します。

1605年家康が将軍職を秀忠に譲り、徳川の天下が続くことを示した年に生存していた子どもたちです。
ご覧の通り家康は子どもたちを各地の城主に封じ、将来の本家の藩屏としようとしました。

この中で次男の秀康は兄であるのに将軍職を継いでおりません。彼は家康に疎んじられていたのです。
家康という人は子どもに対する情が薄い人で、長男の信康はおいとくとしても、この秀康や六男の忠輝、自分が厄年の年に生まれた松平民部などを嫌っていたそうです。
秀康は一時秀吉の養子、つまり人質として外に出され、羽柴秀康と名乗っていました。その後も関東の名家結城家を継いだりしています。家康の覇権が決まったころにやっと松平に戻ったのです。
秀康のほうも自分を邪魔者扱いにした父にはなじめず、むしろ養父だった秀吉を慕っていたと言います。
彼は大坂の陣前に病没していますが、もし生きていたらその去就は微妙だったでしょう。
彼が将軍を継げなかったのは他にも要因はありますが、いずれにせよ、家康・秀忠父子にとって、一族とはいえ、やや警戒する相手でした。

忠吉は秀忠の同母弟で、一時は二代将軍の候補にもあがっていました。秀忠の一番近しい弟といえます。
この忠吉に預けられたのが尾張の国。信長福島正則が入っていた清洲城に封ぜられました。
尾張は古来より東西の接点で豊かな濃尾平野を抱えた要衝の地でした。ここに忠吉が封じられたのはやはり彼が将軍の同母弟だからでしょう。秀忠にとって一番信頼できる一族だからでしょう。

この時点ですでに死んでいる子どもは書いていませんが、この他に信長の命で自刃させられた長男の信康は岡崎城主。
そして1603年に21歳で亡くなった五男の武田信吉(のぶよし:名門武田氏の断絶を惜しんだ家康があとを継がせた)が水戸城主でした。
信康は家康の覇権前に亡くなっているので除外するとして、秀康、忠吉、信吉、忠輝らが親藩大名として家康構想の中にあったといえます。
ですが生来病弱であった信吉は父が将軍宣下を受けた直後に死亡。
そして1607年には秀康、忠吉が死亡。

忠輝は1610年に越前70万石の太守となりますが、大坂の陣で家康の不興を買い、勘当になってしまいます。そして1616年、改易。信州高取で蟄居。
ちなみに忠輝は家康の子で一番長生きをしました。彼が死んだのは1683年、なんと92歳。世は既に五代将軍綱吉の時代になっていました。

つまり家康が世を去る1616年には生存している子どもは秀忠と忠輝、そして後の御三家の始祖のみ。忠輝は勘当中でしたから、秀忠と義直頼宣頼房だけが残ったと言えます。
将来の御三家の始祖はいずれもまだ幼少。義直、頼宣がそれぞれ城主となっていますが、この時点ではまだ家康のもとで養育されていて、家臣が領地を治めていました。
3人とも家康が天下を取ってから生まれた子で、孫と言ってもよい年齢。
子どもに対して情が薄い家康でしたが、年をとってからの子はかわいいのか、三人とも長らく手元に置いて育てました。

家康が死んだ年、1616年。
義直(17歳)は忠吉の後を継いで清洲城主。やがて家康の命で築城された名古屋城に移ります。
頼宣(15歳)は1609年に水戸から駿府へ移ります。いわば家康のおひざもとを治めたわけです。1619年に秀忠の次男忠長が駿府に入り、頼宣は紀伊へ。
頼房(14歳)は兄頼宣の後任として水戸へ。
こうして後の御三家と呼ばれる三人の大名が誕生したのです。

ですが最初に申しましたように、徳川を名乗る親藩は御三家だけに限りませんでした。
秀忠の次男忠長、家光の子、綱重綱吉。彼らはそれぞれ徳川を名乗り大名となっています。1代か2代で家系が途絶えたのですが、将軍家とは御三家よりも近い間柄でした。
現に綱吉が五代将軍に、綱重の子、綱豊改め家宣が六代将軍になっています。
それでも御三家は神君家康の子として、彼らですらかなわない高い格式を持っていました。
それゆえ三代将軍家光、五代将軍綱吉は御三家にかなりきつくあたっています。



今後しばらくは尾張徳川家の成り立ちをお話してゆきたいと思います。

次回は名古屋城についてです。

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# by fouche1792 | 2005-11-10 02:46 | 尾張徳川十七代

御三家の成立

すみません。
本日はお休み。
予告だけ書きますね。

次回から御三家の成立を見てゆきたいと思います。
尾張家祖、義直を語る前に、義直の前任の尾張藩主であった
松平忠吉のお話をします。
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# by fouche1792 | 2005-11-08 03:41 | 尾張徳川十七代
1845年、12代藩主斉荘(なりたか)の死後、幕府から送られてきたのは一橋斉匡(なりまさ)の息子慶臧(よしつぐ)。わずか10歳の少年でした。これには当時もう22歳になった松平秀之助改め義恕(よしくみ)も金鉄組の面々も落胆しました。自分より年下の藩主ですから、もはや自分たちの出番はなかろうと。

そんな空気を知ってか、慶臧の実兄で福井藩の養子となっていた松平慶永(よしなが)――後に幕末四賢侯の一人として勝海舟や坂本竜馬、徳川慶喜らとともに活躍した松平春嶽(しゅんがく)――が弟に手紙を出しております。

尾張家を継ぐことはまことに幸運であること。
家臣や領民が今度の殿様はどんな人か見守っているのだから、学問をおろそかにせず、家臣の言うことをよく聞きわけること。
養父母を実家の父母以上に大切にし、孝行すること。
領民には慈悲の心をもって接すること。


などを優しくこんこんと説いています。
当時春嶽もまだ18歳。家督を継ぐ前でしたが、さすが後に四賢侯の一人に数えられるだけあって、自分の立場はもとより弟の置かれた状況もよく分かっています。そして幼くして藩主となった弟に対する細やかな愛情。

かのマリア・テレジアも幼くしてフランス王家に嫁いだ娘マリー・アントワネットの身を案じ、何度も手紙のやりとりをして、身を慎むこと、気配りをすることなどを諭したといいます。残念なことにアントワネットにはあまり分かってもらえなかったようですが。


慶臧の方は藩主の座にあること4年、わずか14歳で世を去ります。
少年藩主でしたから、これといった事績は残っておりません。もちろん跡継ぎとなる子供もいません。

そして、ここにようやく藩士、領民待望の松平義恕が14代藩主となるのです。



とりあえずのまとめ


名古屋人は普段は堅実を好み、貯蓄に励み、冠婚葬祭などのいざというときは派手にふるまう。そんな気質の歴史的背景を、尾張徳川家の歴代を追うことで見てきました。

御三家筆頭として優遇され、豊かな土地で蓄えの多かった尾張。そこに宗春という個性的な君主をむかえ、名古屋の文化が花開きました。
そんな輝かしい治世もつかの間。いくら御三家筆頭といえど幕府には逆らえず、宗春は罰せられ、地味な、堅実な生き方がよいのだという認識がなされるようになります。
そして相次ぐ押し付け養子の50年間。幕府、お上には逆らえないけれども決して迎合しない。そんな反骨の精神が培われ、いざとなったら東京にも大阪にも負けないのだ、という現在の名古屋人の自負心につながっていったのです。
結婚や葬式などが派手になるのは、一世一代のことだから。これなら宗春のように罰せられません。

以上はあくまで一つの論に過ぎず、支配者の歴史だけを追っていって全てが分かるわけではありません。

ただ以上のような解釈もあることは事実です。



以上をもって尾張徳川家と現在の名古屋人気質との関連の考察は終わりです。
ですがこの後も尾張徳川家は14代慶勝、15代茂徳など、幕末に活躍した君主たちが続きます。

少しお時間をいただき、「幕末編」としてまた皆様にご紹介してゆきたいと思います。
その前に尾張徳川家のそもそもの成り立ちを振り返ってみたいと思います。
次回は「清洲城主 松平忠吉」です。
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# by fouche1792 | 2005-11-06 22:26 | 尾張徳川十七代
君主国の君主は、多くは血統でその地位を保ち続けています。
ですから他家からきた嫁や養子には容赦ないバッシングが行われることもあります。


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鳩を愛した斉温(なりはる)は1839年、子供を残さず死去。後を継いだのは実兄で当時田安徳川家を継いでいた斉荘(なりたか)30歳。 彼は極めて冷ややかな目で尾張家に迎え入れられました。
前代の斉温が一度も名古屋に来ることなく、政治もほったらかしで鳩を買うことに夢中だったのですから無理もありません。
加えて尾張徳川家の分家、高須松平家秀之助という優秀な少年がいたのです。藩士・領民たちは秀之助の藩主就任を待ち望んでいましたが、その願いもむなしく、またもや将軍家斉の子供が押し付けられたのです。しかも当時健在であった「大殿」斉朝(なりとも:10代藩主)にも一言も相談なく、幕府首脳と藩重臣のあいだで決められたのでした。


なぜ重臣たちは幕府の言いなりになっていたのでしょうか。

やはり逼迫した藩財政、だんだん修正のきかなくなった封建社会の矛盾があったからでしょう。時は天保。将軍は12代家慶(大御所家斉は健在)。家慶が将軍就任の1837年にはあの大塩平八郎の乱が起こっています。全国規模で社会制度のほころびが見え始めていました。
そんな時代ですから、将軍公子を藩主にいただくのは何かと心強い。いざとなれば幕府からの援助が当てにできます。一種の保険、というわけです。

しかし、それは掛け金の高い保険でありました。将軍家出身ですから、どうしても幕府に迎合してしまう。斉温が藩主のとき、江戸城西丸が炎上しました。多くの大名が「お手伝い普請」に駆り出されましたが、尾張家でも木曽の木材と巨額の金銀を献上しています。このとき尾張家の領地である木曽山林に幕府役人が無断で立ち入るという事件がありました。そのときでも強い態度に出れなかったのはひとえに藩主が将軍公子だからであろう、と多くの藩士が解釈しました。


では高須松平家の秀之助が人気が高かったのはなぜでしょうか。
尾張徳川家の分家、高須松平家でも藩祖義直の血統は断絶していました。秀之助の祖父、松平義和は水戸徳川家の出身です。母規姫も水戸家出身。ですから秀之助は最後の将軍徳川慶喜とは父系ではまたいとこ、母系ではいとこの関係になります。
血縁で言えば秀之助も斉荘と同じく、尾張家の血筋ではありません。
しかし将軍公子という上から押し付けられた養子ではなく、分家から格上げされた養子ならば意識も違ってきましょう。中央ばかりに顔を向けるのではなく、尾張にどっしりと腰をすえて政治を行ってくれるでしょう。
さらに父義建(よしたつ)という人がしっかりした人で、将来尾張藩主になるであろうわが子を厳しく教育しました。伯父の水戸斉昭も秀之助には目をかけていて、自分の息子(慶喜)の教育にも大いに参考としました。

このように藩士や領民たちは秀之助に期待したのですが、ふたを開けてみればまたしても将軍公子の押し付け藩主となったのでした。
これにはさすがに黙っていられない藩士も多く、そのときに出された多数の意見書が今も残っています。特に水戸家では同じようなケースで藩士たちの推す斉昭の家督が実現していただけに、尾張家だけがなぜ軽んじられるのか、と憤慨した人も多かったそうです。

秀之助も血統の上では尾張とつながっていないこと、大殿斉朝や重臣たちの必死の説得もあってなんとか斉荘の藩主就任が実現しました。
そんな中で幕府や重臣に不満を持つグループ、秀之助の藩主就任を熱望するグループが形成され宗春の罪を許し、歴代藩主並みの官位を与え、墓石の金網も撤去しました。宗春は死後75年にしてやっと安らかな眠りにつくことができたわけです。

斉荘も藩士の融和につとめます。就任後、評判の悪かった倹約令などを次々と廃止。新たな政策を模索しました。しかし悲しいかな彼には宗春や秀之助のようなビジョンというものがありませんでした。自分が尾張家をついだらどうするのか、どうしたいのか、が抜けていたわけです。
自分なりに頑張っていた斉荘ですが、その無策ぶりに実家の幕府からも意見されています。藩政に見るべきものが無い、法令の改廃は大抵にせよ、と。

あわれ斉荘。藩士領民から好かれず、幕府からも小言を言われ、現代の史家からも低い評価しかもらえず、何もなすことのないまま在任わずか6年にして死去。36歳。
一子昌丸(まさまる)は一橋家を継いでいたため、ここにまた、13代藩主をめぐって、将軍家=幕府と秀之助との争いが始まるのです。


斉荘は前代の斉温に比べればずっと思いやりのある、大人だったでしょう。自分のおかれた位置をよくわきまえ、決して奢らず、藩内の融和に努めたことからそれが分かります。彼がもう少し早く尾張家を継いでいたら、少なくとも10代の斉朝の後であれば、名君にはなれずとも、あそこまで反感を買うことは無かったでしょう。
まったく生まれた時代が悪かった。尾張藩の窮乏は彼一人の責任ではありません。ですが他家出身であること、将軍家からの「押し付け」であったことが彼の立場をまずくしました。これも彼の責任ではないのですが。


彼の生涯を見るとき、現代でも繰り返されている嫁、養子いじめを思わずにはおれません。
皇室が今後も存続してゆくためには、もっと開かれた皇室にするか、逆に一切を閉ざし、神秘のベールにつつむしかないでしょう。現状のまま、ということは無いでしょう。
開かれた皇室をめざすなら、このような偏見からは脱却すべきでしょう。
もしも女帝を認めることになれば、独身を強いることは人道的におかしいですから、当然配偶者を迎えることになります。皇后、皇太子妃ですらバッシングを受けたことを考えたとき、未来の女帝に誰が配偶者となっても今以上のバッシングが起こらないとは言い切れません。
一体、皇室の存続を本気で望んでいる人がどれくらいいるのでしょうか? 女系反対の国会議員連盟が立ち上がるとも噂されています。

私はどちらでもよいのです。
男系継承にこだわるのも一理あるし、女系を認めるのも筋が通っています。
あるいは今上天皇と皇太子の代で皇室を終わらせる、自然消滅の形になってしまってもやむをえないかな、とも思います。

なにせ皇室の存続を望むのはあくまで周囲の希望、思惑なのですから。
(たとえ当事者たちが望んでいても、あるいは望んでいなくても発言はできないのですが)


あわれ、斉荘。彼のような境遇の人がいなくならない限り、彼の悲劇は終わらないのです。


斉荘は茶人として名高く、教養豊かな人だったそうです。政治的には殆ど語られませんが、文化的には特出した存在でした。
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# by fouche1792 | 2005-11-04 16:05 | 尾張徳川十七代
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斉朝の後を継いだのは将軍家斉の19男、斉温(なりはる)
9歳で藩主となり、21歳までの12年間一度もお国入り(参勤交代で、自分の領国に入ること)なく、江戸で死去。

先代の斉朝もそうでしたが、この斉温も、それに引き続く養子たちも影が薄い。他の藩主と比べ、残っている逸話が少ないのです。やはり「押し付け養子」として、当時から今に至るまであまり人気が無いからなのでしょうか。
この頃になると封建制の矛盾はもうどうしようもなくなってきていて、尾張藩でも慢性的な財政難に陥っていました。藩は領民たちに厳しい倹約令を出します。それがぜいたく品の使用を禁じるものであったので、領民たちの反感を買いました。宗春ならわかっていたでしょうが、ぜいたく品を禁じ、代わりに粗末なものを使え、では逆効果。質素な身なりをするのにお金がかかる、という馬鹿らしい現象を招くからです。また倹約、倹約では経済が沈滞してしまいます。
こうした社会の変化と時期が重なってしまったのも彼らの不運かもしれません。
彼らとて自ら望んで養子に来たわけではないでしょう。生れ落ちるところを望んだわけではないでしょう。
それでもこの斉温には感心できないところがあります。

まず、一度も名古屋に来なかったこと。幼少のときはともかく、自分で判断できる年齢になっても動こうとしなかった。重臣や近臣たちがそうさせたのかもしれませんが。おかげでますます藩士、領民との距離が広がってしまいました。
加えて彼には困った趣味がありました。彼はハトが大好きだったのです。それこそ何百羽というハトを飼育し、専任の役人まで任命しました。ただでさえ財政難にあえぐ藩士領民たちを尻目に、莫大なお金をかけて飼育し続けたのです。その費用をめぐって不正が起きたこともあり、人々の心はますます離れていきました。

政治そっちのけで動物をかわいがるというと、五代将軍綱吉が有名ですが、彼の生類憐みの令には人命尊重もうたわれており、戦国の遺風を振り払う意味も込められていました。一口に悪法と断じきれない内容を含んでいました。
むしろ鶴を愛し、大臣にまで任命したという春秋時代(BC770~BC403)前期の君主懿公(いこう:在位BC669~BC660)によく似ています。衛が侵略されたとき、兵も国民もこの殿様を見捨てたといいますが、無理もないでしょうね。
斉温は平和な時代に生を受けただけまだ幸せだったのでしょう。

斉温にとって尾張藩とは何だったのでしょうか。
21歳で死んだのですから体は余り丈夫ではなかったでしょう。将軍の公子とはいえ、望まれぬ養子ということで周囲も冷ややかだったのかもしれません。
彼がハトに熱中したのは単なるバカ殿の道楽なのか、それとも孤独のなせる業だったのか。真相は既に土の下です。
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# by fouche1792 | 2005-11-02 00:56 | 尾張徳川十七代