江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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3,8,15の法則

歴史にはしばしば興味深い偶然があります。例えば歴代のソ連(ロシア)の指導者を並べると。。。
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(↑画像はクリックで拡大します)
見事にハゲ→フサ→ハゲ→フサ……と並んでいますね~。

わが国には鎌倉室町江戸の三つの幕府がありました。それぞれの幕府を比較しますと、これまた次のような偶然があります。
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(↑クリックで画像が拡大)
受験生などはこうした偶然に着目して事項を整理し、覚えてゆきます。

この表にあるとおり家光の時代は幕府の確立期で、老中、若年寄などといった幕府組織が固まったのもこの頃です。組織が固まってきますと、将軍個人の資質がどうあれ、家臣がしっかり補佐しておりますから、幕府権力はゆるぎないものとなってきました。
家光個人は優秀ではなかったですが、己の置かれた位置をよく理解していたといえます。
義直いさかいはありましたが、一方で、今や最大の大名となった(すなわち最大の仮想敵国となった)尾張家との縁組もしております。


千代姫

先日申しましたように家光は男色趣味がたたって、長い間子供がいませんでした。長女千代姫が生まれたのが寛永14年(1637年)。家光34歳(以下年齢はすべて数え年)。
将軍家の女子は、他の大名の例に漏れず、政略結婚の手駒であります。二代将軍秀忠の長女千姫豊臣秀頼に、末子和子後水尾天皇に嫁いだように。
そして家光は千代姫を尾張家に、家光の子、五代将軍綱吉鶴姫紀伊家に嫁がしています。

千代姫が尾張家に輿入れしたのは寛永16年(1639年)。わずか3歳の花嫁でありました。夫は義直の長男、光友で、こちらは13歳。とはいえ、尾張名古屋にやってきたわけではありません。大名の妻子は江戸に住まうのが原則でありましたから。
何かと将軍家と軋轢のあった尾張家ですが、これで安泰であろうと、父義直と祖母(つまり義直の母)相応院は胸をなでおろしました。ところがここでも家光がプレッシャーをかけます。家光は相応院に上司を遣わし、次のように申し渡しました。

「尾張殿のたっての望みゆえ、天下にも変えがたい、大切な姫君をさしあげるのだ。相応院にも、大事に守り立てていただきたい」

相応院はこれを聞いて大変悩んだそうです。当時の乳幼児死亡率は今と比べ物にならないくらい高いものでしたから(詳しくは「4代 徳川吉通」の項をご覧下さい)。
相応院が死んだのは寛永19年(1640年)。一説によれば、千代姫養育の心労がたたった為とのこと。あながち否定はできません。

千代姫は無事に成人し、承応元年(1652年)には後に尾張家三代当主となる綱誠(つななり)、明暦2年(1656年)には高須松平家初代となる義行を生んでいます。元禄11年(1698年)死去。63歳。

千代姫が尾張家に輿入れしたときに持参した豪華絢爛たる花嫁道具は現在徳川美術館で見ることができます。

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by fouche1792 | 2006-02-28 17:18 | 尾張徳川十七代
将軍家と尾張家の争いと言えば、吉宗宗春が有名ですが、実は初代義直も何度か家光と衝突したことがあります。

先に見たような両者の性格の違いもあるでしょうが、何よりも「生まれながらの将軍」として、全ての諸大名を家臣化していった幕府の方針とぶつかったのです。
もちろん義直は

「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」

との家康の遺言を忘れたわけではありません。諸大名のトップとして、率先して将軍家を守り立てるつもりでした。
しかし甥(わずか4歳差ですが)の高飛車な仕打ちに、彼の自負心が何度も傷つけられます。


将軍家ご危篤

寛永10年(1633年)に家光が病気になりました。病状は芳しくなく、危篤との噂が流れました。そのころはまだ嫡男家綱が生まれておりませんでしたので、万が一のことがあれば将軍家が途絶えてしまいます。
このとき行動を起こしたのが義直。急遽江戸へ向かいます。
あわてた幕府首脳。

「なぜ許可もなく江戸へ参られたのですか」
「今、将軍家にお子無し。家系が途絶えるのは天下の一大事ではないか」

つまり自分の出番だ、というのですね。
とはいえ、いくら義直と言えど許可なく江戸へ入れるものではなく、すごすごと引き返すことに。
この時より

「尾張殿に謀反の意あり」

と睨まれ、警戒されるようになりました。

事実この時期には、外様大名で将軍家に逆らえる実力のあるものは一人もおりません。あまたの大名が改易の憂き目に会った中で、尾張、紀伊の両家が最大の大名として残ってしまいました。将軍家に次ぐ格式と経済力を持って。

義直に野心があったかどうか。私なりの推測をお許しくだされば、彼は将軍家にとって代わるまでは思っていなかったでしょう。生来の四角四面ゆえに、天下騒乱を未然に防ぐために江戸へ下ったのだと思います。
しかしながら、はたから見れば「野心あり」とされても言い訳できない行動でありました。

鎌倉時代にも同じようなことがありました。
1193年、富士の巻き狩りで有名な曽我兄弟のあだ討ちが起こったときのこと。
この時頼朝も殺されてしまった、との風聞が鎌倉に伝わりました。
嘆き悲しむ北条政子

「後にはそれがしがおりますから、安心めされい」

と言ったのが弟の範頼(のりより;義朝の六男で、頼朝の弟、義経の兄)。
この一言が原因で、実は死んでいなかった頼朝に

「将軍位を狙っているのでは」

疑われ、伊豆修善寺に押し込められ、やがて殺されてしまいます。

これを考えると、義直の行動はやはり軽率であったと言うしかありません。


名古屋城篭城

寛永11年(1634年)、家光は京へ上ることになり、その帰路、名古屋へ立ち寄ることを義直に告げました。
将軍のおなりとなれば、それは家門の誉れ。門や屋敷を新築するのがならいです。義直も城内の本丸御殿を改修。新たに御成書院(上洛殿)や御湯殿などが造られました。

ちなみに江戸時代の大名は天守閣に住んでいたわけではありません。城内の御殿に住み、そこで政務を執っていました。名古屋城にはかつて本丸御殿(戦前は天守閣とともに国宝)と二の丸御殿、二つの御殿がありました。本丸御殿は将軍家のおなり御殿として使用されるようになり、藩主は以後二の丸御殿に住むようになりました。将軍家の立ち寄る本丸御殿はたいそう豪華だったそうです。戦災で消失したのが惜しまれます。

ところが家光は急遽予定を変更。名古屋城には立ち寄らないことに。
おそらくは前年のしこりが残り、警戒していたのでしょう。
これには義直、面目丸つぶれ。莫大な費用と手間をかけて御殿を改築したのもすべて無駄。
将軍家に弓引くことは父の遺言にそむくことですが、義直にも武士の意地があります。

そこで弟の頼宣(よりのぶ;紀伊家初代)に胸のうちをぶちまけます。

「このたびのお上のなされようはあまりにもひどい。おかげで私は天下の笑いもの。骨を折った家臣、領民たちにも申し訳が立たぬ。かくなる上は名古屋城に篭城して、一矢報いようと思う」

驚いた頼宣。父の遺言を忘れたのかと、必死に説得しますが、義直は聞きません。

「私にも意地というものがある」
「しかし、たとえ名古屋城が天下の名城といえど、将軍家ならびに全国の諸大名を敵に回しては勝ち目はありますまい」
「命が惜しいのではない。名が惜しいのだ」

そこで頼宣、はらはらと涙を流し

「兄上がそこまで覚悟なされているならば、もはや止めはいたしません。しかしながら、戦うからには勝たねばなりません。これぞ真の武士と言うもの。ならば篭城は下策。勝ち目のない戦を仕掛けて死んでしまってはそれこそ天下の笑いものとなりましょうぞ。
かくなる上は城より打って出て、将軍家帰路の途中を攻めませい。及ばずながら私めも兵を挙げます。ともに戦いましょうぞ。もし勝てれば天下は我らのもの。敗れれば、兄弟揃っていさぎよく果てましょう」

驚いた義直。弟の誠心に涙を浮かべながら、

「当家のために、そなたまで巻き添えにするわけにはいかぬ。それこそ神君(家康)に申し訳が立たぬ。ここは忍従しよう」
「わかってくださりましたか」

こうして将軍家光は無事江戸に帰ることができました。
後には将軍位を激しく争うことになる尾張と紀伊ですが、この時代にはまだ兄弟の間柄。近しい存在でありました。


竹千代

さて、長い間子宝に恵まれなかった家光にも1641年に嫡男が誕生します。
*家光に長い間子がなかったのは、男色にふけっていたからだそうです。>春日の局も痛く心配して、何人もの美女を大奥に送り込んだそうです。
春日の局が家光に寄せた愛情はまことに厚いもので、母にあまり愛されなかった家光を慈しみました。食べ物の好き嫌いが激しかった彼のために、わざわざ五色のご飯を作らせたこともあったそうです。

将軍家嫡男の名前は竹千代。後の四代将軍家綱です。
この竹千代の山王社初詣の際三家も供奉を命じられました。これにカチンと来たのが義直。

「大納言である私が、無位無官の竹千代様に供奉はできない」

しかし、はいそうですか、では済まされません。老中(知恵伊豆こと松平信綱)はなんとかなだめようとします。

「とはいえ、竹千代様は将軍家のお子でございます」
「親の官位が尊いというのならば我らこそ太政大臣の子ではないか」
「上様のためです。そこは曲げて、お供してもらいたい」
「典礼を曲げることはかえってお上のためにならぬ」

こうして義直らは山門で竹千代を迎え、そこから一緒したそうです。



う~む。こうやって書いてみると、どうも義直の分が悪いですねえ。
確かに礼儀を重んじ、皇室を尊び、理を曲げないのはいいことでしょうが、彼は意地を張りすぎました。ちょっと大人気ないですね。

とはいえ、家光の方も態度に問題はありました。

当初義直たちは「尾張様」、「紀伊様」と呼ばれておりました。
これにむっとしたのが家光。「上様」である自分と同じ様づけとは何事だ、と気色ばんだといいます。
この頃から「尾張殿」「紀伊殿」と殿づけでよばれることに。

義直が1650年に病死したことは先日書きました。
この時も家光はあっさりしたもので、わずかな日数のうちに、紀伊家、水戸家に

「これで早々に精進落としをなされい」

と生臭物を賜ったそうです。

どこまでもそりの合わぬ二人でした。

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by fouche1792 | 2006-02-25 22:43 | 尾張徳川十七代

番外 義直の顔

先日書きました義直の肖像です

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by fouche1792 | 2006-02-23 10:11 | 尾張徳川十七代
義直の人柄

尾張家初代義直(よしなお)は、よく言えば謹厳実直、悪く言えば頑固者で面白みがない人でした。
彼の人柄を表すこんなエピソードがあります。

義直の正室は春姫。紀州藩主(後に広島藩主)、浅野幸長(ゆきなが)の娘です。外様の雄藩、そして豊臣家恩顧の大名である浅野家との結びつきを強めるための政略結婚でした。
彼女との間には長い間子供がありませんでしたので、家臣は側室を迎えるようにすすめたところ、義直はかなり渋っていたそうです。
春姫を愛していた、それもあるかもしれませんが、彼は側室を持つのは道徳的によろしくない、と思っていたのです。彼はかなり儒教に染まっていましたから。
けれども後継者問題は深刻ですから、家臣たちも引き下がれません。そこで紀伊家初代頼宣(よりのぶ)に働きかけ、頼宣の薦めもあって、やっと側室を迎えることに同意。二代藩主光友(みつとも)が生まれたのは義直26歳のときでした。

義直は眠るときも神君家康の子としての自覚を忘れませんでした。
なんと、寝返りを打つたびに脇差を置き換えていたといいます。いつ敵に襲われてもおくれをとらぬように、です。一体いつ眠っていたんだよ、と思わず突っ込みたくなります。
これは事実ではないかもしれませんが、このような風評が立つほど、彼はマジメ君だったのです。友人にするにしても、上司(主君)にするにしても、息が詰まりそうですね。

そんな義直、1650年に病死してしまうのですが、病床にふせっていても一切の不平不満を漏らさず、しかも苦痛を顔にあらわすことも、うめき声を上げることもありませんでした。
「みっともないから」
という理由で。武士として、神君家康の子として、恥ずかしくない生き方をしたい、これが彼のポリシーでした。

現在残っている彼の肖像は(私が確認したもので)2つ。一つは母お亀の方が作った木像。おそらく少年時代のもの。もう一つは壮年になった彼の画像。ただし、原本は失われ、残っているのは模写ですが。
少年時代の彼は丸顔でかわいらしいのですが、壮年の彼は本当に頑固者、といった感じです。ものすごいしかめ面をしてます。

彼の学問好きは有名で、特に儒学と神道に深く傾倒しました。水戸黄門として有名な徳川光圀(みつくに;水戸徳川家二代)はこの伯父を深く尊敬し、自身も学問に造詣が深く、後に『大日本史』編纂にかかずらうのです。
*ちなみに私は過去にとりあげたことがありますが、光圀という殿様をあまり高く評価しておりません。詳しくはコチラコチラをご覧ください。

義直の理想はかなり高く、プライドも同じくらいに高いものでした。


三代将軍家光

尾張義直・紀伊頼宣・水戸頼房(よりふさ)の三兄弟は三代将軍の家光とは叔父甥の間柄とは言え、はほとんど同じ年齢でした。

徳川義直 1600年生まれ
徳川頼宣 1602年生まれ
徳川頼房 1603年生まれ
徳川家光 1604年生まれ

家光という人は良くも悪くも典型的な三代目でありました。
幼少期にはちょっとぼんやりしたところがあったらしく、ために父秀忠、母江与の方浅井長政の娘で、淀殿の妹)は家光より弟の忠長(ただなが)を後継者に、と思っていた時期もあったようです。そうと知ってあせったのが、家光の乳母、お福。有名な春日の局そのひとであります。彼女は家康に直訴し、それがあって家光は秀忠の後継者となったのでした。
もちろん、そこは家康のこと。一女人の言うなりになったのではありません。戦国の世終わり、太平の世となった今では、後継者争いはいらぬ騒乱のもと。子供たちの資質の優劣でことを決めれば、敗者やその側近は必ず恨みを覚えるでしょう。ならば、資質など関係なく、長幼の序で決めてしまえばよい。創業期と違って安定期に入れば組織も固まり、有能な家臣が補佐するから大丈夫だろうと。まあ、こういう理屈なんですね。

家光は生涯祖父には非常に感謝してました。家康を祭った日光東照宮が今見るように豪華になったのは彼の時代ですし、日光参拝が一番多かった将軍も彼です。
逆に父母に対しては。
おそらく家光という人は表面はともかく、内面は繊細だったのでしょう。
彼は長い間素行が改まらなかったといいます。非常に派手な服を着て、夜中に城を抜け出したり、辻斬りをしたりなど、今で言うツッパリ、ヤンキーめいたこともしております。これもどこまで事実かはわかりませぬが、義直と同様、このような噂が残っていること自体が彼の性格を物語っていると言えるでしょう。

家光が三代将軍となったのは1623年。二十歳の年(年齢は数え年)。
しかし大御所として父秀忠が後ろに控えておりました。

秀忠が在世中はそれほど問題はありませんでした。
秀忠にしてみれば御三家当主たちはまだまだ子供。いかようにも扱える存在だったし、なにより律義者の彼のこと。父家康からくれぐれも頼むと言われたこともあって、三人を特別扱いしました。
ところが家光の世になってから、義直と家光の間がきな臭くなってくるのです。

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by fouche1792 | 2006-02-21 22:23 | 尾張徳川十七代