江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>
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同じような名前ばかり出てくるので、ややこしいですね。
家宣死去(1712年)時点での系図を作ってみたので参照して下さい。


徳川吉通(よしみち)は三代藩主徳川綱誠(つなのぶ)の9男として誕生しました。9番目の男子である彼が家督を継いだのは、それ以前に生まれた子供がみな早世したからであります。
綱誠という人は子沢山で、なんと21男17女、計38人の子供をもうけています。尾張家歴代でもトップです。
しかし、この38人の中で綱誠の死後も生き残り、成人まで育ったのはわずか6人。

吉通、通顕(みちあき、後の6代藩主継友)、義孝(尾張家分家高須松平家を継ぐ)、通温(みちまさ)、通春(後の宗春)、そして松姫(加賀藩主前田吉徳室)。

これ以外はほとんどが1~3歳(数え年。満で言うと0~2歳)で死去しています。
(ちなみに末っ子の松姫は綱誠が48歳で死んだ半年後に生まれております。)

この時代、特に大名家の乳幼児の死亡率は高く、11代将軍家斉も歴代最多の55人の子供をもうけましたが、そのうちの34人が早世しています。
これは当時の医学レベルが低かったこともありますが、一番大きな原因は乳母たちが胸までぬっていた白粉に鉛が含まれていたためだそうです。
身分が高いのがあだになるとは、何と皮肉なことなのでしょう。

それにしても綱誠の胸中はいかばかりであったか。
子供ができても片っ端から死んでゆく。
当時の大名の重要な使命は跡継ぎをもうけることでした。綱誠はあせったでしょう。
まるで女王蜂か女王蟻のように次々に子供をもうけていくさまは哀れでさえあります。
(ですから、私は秀吉の女漁りを一概にとがめられないのですが。。。)
今で言えば
「あそこの嫁はまだ子供を生まんのか」
みたいなものすごく失礼な陰口がたたかれ、プレッシャーを感じていたでしょうね。

そんな中でやっと育った吉通。
四歳で(兄たちが死んでしまったため、)嫡男として扱われ、名前をそれまでの藪太郎→吉郎から、尾張家嫡男の証、五郎太と改めます。七歳で嫡男としてお披露目されます。
しかし、彼が元服したのは11歳のとき。先日申しましたように将軍綱吉から一字をもらい吉通と名乗るのですが、これは父綱誠の死去があったため。それにしても遅い元服です。
元服とは今で言う成人式のことですが、この時代の大名家では嫡男はとにかくはやく元服させ、当主がいつ死んでもいいように準備するのが普通。吉通の祖父光友は9歳、父綱誠は6歳で元服しています。
これはやはりどこまで育つか不安だったからではないでしょうか。
吉通の前では6歳まで生きていたのが最も長生きでした。吉通の弟にはせっかく12歳までそだったにもかかわらず、早世した者もいます。

吉通を語る場合、まずこのガラスの置物を扱うかのような大切な育てられ方は無視できないと思います。
吉通は宗春のような個性にあふれた殿様ではありません。記録をたどってみても彼がどんな人物だったか、あまりわかりません。これもその育ちゆえかと思われます。

吉通については英邁であった、というものもあれば、暗愚であった、というものもあります。
例えば『元禄御畳奉行の日記』で有名になった、尾張藩士朝日文左衛門「鸚鵡籠中記」に描かれているのはこんな姿です。

・無類の酒飲みで、東海道53次の宿名をつけた杯53杯を次々と飲んだ。しかも、「上り」「下り」と称して何往復もした。
・水練(水泳)をするためにプール(大きな桶でしょう)を作ったが、水が冷たいので湯を沸かさせ、入れた。しかもプールが漏れていたため、せっかく作ったのにすぐやめてしまった。

なんとまあ、あきれるバカ殿さまではありませんか。
もっとも朝日文左衛門が書いたのはあくまで噂。しかも下級武士の耳に届く噂ですから真偽のほどは定かではありません。
それでも下級の家臣にまで変な噂をささやかれるほど吉通がだらしないか、当時の尾張藩がゆるんでいた、とも言えます。

そんなこんなでなぞの多い吉通ですが、はっきり言えば影が薄い。
11歳で藩主となった、ということですから、政治ができるわけはありません。
彼を支え、藩政を見たのは叔父の松平義行(よしゆき)でした。
吉通の名君という評判は義行の功かもしれません。多分そうでしょう。
ここら辺はやはり11歳で家督を継いだ4代将軍家綱と叔父の保科正之(ほしな・まさゆき:家光の異母弟で、会津松平家祖)の関係にそっくりです。そういえば家綱も影の薄い将軍でした。


大切な跡取りとして乳母日傘で育てられ、影の薄かった吉通。
家綱以外にもう一人思い当たる人物がいます。
そう、豊臣秀頼。秀頼には淀殿という個性の強いお母さんがいて、その影に隠れてますが、吉通にもそれはそれは個性的なお母さんがいたのです。


次回「恋多き母となぞの死」でお話しましょう。
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by fouche1792 | 2005-09-30 13:04 | 尾張徳川十七代

大名の名前について

吉通の話を進める前に、大名の名前について整理しておきたいと思います。

日本史の苦手な方、嫌いな方に話を伺うときよく聞かれるのが

「人物の名前がね、よく似ててね、誰が誰だか、こんがらがるのよね~」

というお言葉。なるほど、ごもっとも。

例えば藤原長の兄弟は
 隆・兼・
と皆「道」の字がついてます。ややこしいですね。

日本の場合、親や祖先、兄弟の名前から一字もらったり、主君が家臣に自分の名(諱:いみな、元服時に名乗る本名のこと)の一字を与えたりします。だから一族で似た名前が多いのですね。

これを「通し字」と「偏諱」(へんき)といいます。

通し字とは一族で共通の一字を使うことです。
藤原氏の時代は先ほどのように兄弟――系図で横並び――で通し字を持っていましたが、武家の時代になりますと系図の縦ラインで通し字を持つようになります。
足利将軍家の「」(満、政、昭など)や徳川将軍家の「」(康、光、綱、など)などがそうです。徳川将軍の「家」は源義家にあやかったそうです。

ですから名前に「」がつかない将軍は2代将軍の秀忠を除けば、傍流(嫡流でない、次男以下の家)から将軍になった人ばかりです。
綱吉(5代)、吉宗(8代)、慶喜(15代) がそうですね。
宣(6代)、斉(11代)、茂(14代)も傍流から将軍家を継ぎましたが、そのとき元服したか名前を変えたくちです。

では秀忠はどうかといえば、忠の「秀」は豊臣吉の「秀」をもらったのです。もちろん、秀吉から。
これが「偏諱」です。偏諱とは主君など身分の高い人の名前の一字をもらうことです。偏諱を受けることは義理の親子であることを意味します。ときに忠誠の証として、あるいは褒美として与えられました。
秀忠が元服した頃はまだ豊臣の世でしたから、家康の子、次男康と三男秀忠は秀吉から偏諱を受けたのです。

そして徳川の世になると徳川将軍が武家のトップになりますから、大身の大名や武士たちは将軍から偏諱を受けました。

先ほどの吉は兄である4代将軍、家から。
宗はその綱から、さらに以前にお話した尾張家の春はその吉から一字をもらったのです。

御三家は皆トップクラスの大名ですから、当主と嫡男は将軍から一字をもらいます。ですから逆にその字を見ればどの将軍の時代に元服したか、どの時代に生きていたかが大体分かります。

御三家の中で最も有名な水戸家の徳川圀(水戸黄門)は3代家の時代に元服。4代家綱と次の綱吉の時代に活躍しました。
今回の主役である徳川通は吉宗と同じく綱吉の時代に元服。綱吉と次の家宣の時代に藩主を務めました。
尾張家の宗春ははじめ松平通春(みちはる)と名乗っていました。春とは兄であり、主君である吉通の字をもらったものです。そして吉宗の時代に尾張家を継ぎましたから、宗春と名乗ったのです。
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by fouche1792 | 2005-09-29 12:33 | 尾張徳川十七代
<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>

愛知万博も終わりました。なぜか列車「エキスポシャトル」は今も走っていますが。。。
開催まで紆余曲折していましたが振り返ってみれば大盛況。たくさんの方が名古屋を訪れました。
思えば1988年、名古屋は「名古屋にオリンピックを」と異様なまでに盛り上がり、激しい招致合戦の結果最終的にソウルに決まり、激しく落ち込みました。今回の万博でイベント招致に成功しても開催まではどこか冷めた雰囲気があったのはそのせいでしょうか?


さて江戸時代中期、宗春登場以前にも同じように名古屋は挫折を味わっています。
ここで宗春以前の名古屋の殿様のお話しをしましょう。

生類憐みの令」で庶民を苦しめた「犬公方」五代将軍徳川綱吉の後を継いだのは、甥の徳川家宣(いえのぶ)。彼は温和で学問好きな君主として知られ、学問の師新井白石、側近の間部詮房(まなべあきふさ)を登用。積極的に政治の刷新を図りました。

家宣の人柄を表すこんなエピソードがあります。
綱吉は死に際して、
「生類憐みの令は子々孫々守ってゆくようにせよ」
と遺言しました。しかし生類憐みの令でたくさんの人が迷惑しているのは家宣も知っています。家宣は綱吉死後さっそくこの令を廃止し、庶民の喝采を得ました。このとき八千人以上の人が獄から解放されたそうです。
これは大胆なことでした。なぜなら、当時の学問・道徳の根源であった儒教ではなにより「孝」、親孝行を重んじています。遺言を守らないのは最大の不孝。
先代の遺言を守るか、民の幸福を図るか、まじめな家宣の答えは決まっていました。

「先代のご遺言ゆえ、自分ひとりは生涯この令を守ってゆこう。
しかし、生類憐みの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。余は天下万民のために、あえて遺命に背くこととする。
自分ひとりが守ることによって、先代にも申し訳が立とう」

叔父の綱吉に嫌われなかなか後継に指定してもらえず、48歳になってやっと将軍になった我慢強い苦労人でした。

ですがもともと体の弱かった家宣は将軍にあることわずか4年でこの世を去ります。跡継ぎの息子、鍋松は当時わずか4歳(数え年なので、満年齢では2,3歳)。
死の一か月ほど前、将来を憂えた家宣は新井白石を病床の枕元に呼び、相談します。

「天下のことは私すべきではない。跡継ぎが無くはないが、幼いものを立てて世を騒がしくした例も多い。
そこで余の跡は尾張の吉通(よしみち)殿に譲ってはどうか。ないしは鍋松に継がせておき、尾張殿を西の丸に入れて後見とし、政治を任せるか。
どちらがよいであろうか」

白石は即座に答えました。

「ご立派なご配慮ではございますが、どちらも必ずしも適切とは存じませぬ。
お跡継ぎが二、三に分れたときの派閥の争いが世を騒がせました例は、不幸にも過去に繰返されて参りました。上様(家宣)のお世継ぎに鍋松君がおありなのに尾張様の名があがれば、心無く二た手に動きだす者もできて参りましょう。
御三家をはじめ御一門の方々、譜代の御家来がかくお揃いのうえ、守り立てますれば、若君が御代を継がれまして何のご懸念がありましょうか」
「幼い者に万一のことがあれば」
「その為に神君(家康)は、御三家をお立てになりました」

その言葉に家宣も安心し、1712年死去。こうして鍋松が七代将軍となり、家継(いえつぐ)と名乗りました。

ここで家宣の後継にと言われた尾張吉通こそ、宗春の兄、四代尾張藩主徳川吉通その人です。彼が長生きしていたら確実に将軍家を継いだであろうことは多くの学者も認めています。

そして家継はこれも在位4年、1716年、わずか8歳(満年齢では6,7歳)で世を去り、八代将軍の座を巡って尾張と紀伊の争いが始まるのです。

ではその吉通はどんな人物だったのでしょうか。そしてなぜ将軍になれなかったのでしょうか。


次回「4代 徳川吉通 なぞの殿様」に続きます。


 
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by fouche1792 | 2005-09-28 13:56 | 尾張徳川十七代
東海雑記にアップした記事を加筆訂正したものです>

痛快無比な宗春を読むなら、コレ!

宗春を主人公にした小説は何点か出ています。
特に1995年、NHK大河ドラマで「吉宗」が放映された頃は名古屋でも宗春ブームが起こり、名古屋祭りの郷土英傑行列(市民が扮した信長・秀吉・家康のパレード)にも宗春がゲスト出演。
宗春本も増えました。

それ以前は実は忘れられた存在として、歴史書に出てくるか、時代劇、時代小説の悪役としてちらっと出てくる程度でした。
その頃早くも宗春を真正面から取り上げ、主役とし、単なる吉宗のライバルでなく、それなりのポリシーを持った人物として描いたのが、海音寺潮五郎さん『吉宗と宗春』です。
おそらく初めてまっとうに宗春を描いた小説ではないでしょうか。

題名も私が記憶するだけで4回変わっています。

『尾張藩勤皇伝流』→『風流大名』→『宗春行状記』→『吉宗と宗春』。

その時代、時代で記憶に残りやすい題名にしようという工夫がうかがわれます。海音寺さん死後の改題もあったでしょうが。

海音寺さんは豪快な男、ひたむきな男を描くのが特にうまく、平将門、上杉謙信、西郷隆盛などの傑作小説をかいていらっしゃいます。昔は司馬さんと人気を二分していましたね。
そんな海音寺さんの描く宗春はやはり豪放なそして優しい男。一緒にいるとこちらまで楽しくなってしまうような、名前のとおり春を感じさせる風のような男です。
対して吉宗、大岡忠相などは自分にも他人にも厳しい為政者として描かれています。
そう、「暴れん坊将軍」のイメージと全く逆になっていますね。

もちろん、これは歴史小説であり、作家のフィクションです。
作中宗春は吉宗暗殺を企む旧家臣をさりげなく援助したり、大規模な巻狩りを企画して幕府に叛乱を起こそうとすることが暗に書かれております。史実と作家の想像をたくみに交えた、読んでいて楽しいフィクションです。
実際の宗春は以前書きましたように、理想が先走り、政治家としては吉宗にはかなわない男でしたが、この小説では吉宗を上回る男として描かれています。
おそらくこの本を読んだ殆どの人は宗春のファンになることでしょう。

スケールの大きな、かっこいい宗春を感じてみたい方にお勧めです。
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by fouche1792 | 2005-09-27 10:53 | 尾張徳川十七代
東海雑記にアップした記事を加筆訂正したものです>

隠居後、宗春は25年生きました。
それは失意の年月であり、幕府の厳しい制約を受けた年月でもありました。
1739年、江戸より木曽路を通って名古屋に到着。名護屋城三の丸内の屋敷に幽閉されます。名古屋への道中は誠に寂しいもので、道筋への近隣の男女の送迎も禁止されておりました。
そして幽閉中は親しんだ近習とも離れ、屋敷門も閉ざされ、父母の墓に詣でることすら禁止されました。

1751年、将軍吉宗死去。かつてのライバルの死を宗春がどのような気持ちで聞いたかは誰もわかりません。

1761年には父母の墓参りが許され、閉ざされたままの屋敷門が開放。隠居後初めて家臣と顔を合わせることもできました。
そんな喜びもつかの間。
1764年10月8日、宗春は69歳の波乱の生涯を閉じました。
時はすでに吉宗の孫10代将軍家治の治世。尾張家でも宗春の後を襲った8代宗勝はすでになく、その子、9代宗睦(むねちか)の時代でした。

人々にとって宗春の輝いた治世も夢のかなた。元藩主の訃報を聞いてあの時代を思い起こす人は、もはやまれでした。

しかし、幕府は依然宗春を許してはいなかったのです。
その証拠として、宗春の墓には罪人であるかのように、金網がかけられていたのです。
死してなお安息のない宗春。
死後75年たった1845年、ようやく金網がはずされ、歴代藩主と同じ待遇を得ることになるのですが、
これは当時反幕府感情を募らせていた尾張藩士民を宥めるためだったそうです。
最後の最後まで幕府に振り回された宗春でした。


宗春の業績はまだ分かっていないことがたくさんあります。
これは幕府と幕府に迎合した藩執政がその記録を消してしまったためだと言われています。
こうして人々の記憶から宗春は消えてゆきました。

時は下って昭和。
もはや宗春は歴史書にすこし記載されているか、時代小説で吉宗の失脚を企む悪役、(または善役)として描かれているかに過ぎなくなりました。

1980年代の初め、NHK名古屋で『あなたは宗春を知っていますか』という番組が放映されたことがあります。名古屋出身の俳優、森本レオさんを案内役として、宗春の業績を紹介した番組でした。
冒頭、町行く人々にこんな問いかけをしていました。
「あなたは宗春を知っていますか?」
知っている、と答えた人はなんとたったの1名。歴史通のおじいさんだけでした。

そして1995年。
大河ドラマ『吉宗』放映。このとき全国の人は宗春の存在を知ることとなりました。地元、名古屋の人々も。宗治は再び甦りました。
そして名古屋の人々に「中京の繁栄を築いた恩人」として語り継がれています。


高成長だった元禄の世を経て、低成長になった享保、元文期。しかしひとり名古屋だけが宗春の下で繁栄しました。
それまで質実剛健を旨とする尾張藩の治世下で蓄えられていた「豊かさ」が見事に開花したのです。もともと生産力の高い地方だっただけに、潜在的な活力は大変なものでした。
そんな時代に宗春のような君主を迎えたのはまさに天の采配と言うべきでしょうか。

しかし、その豊かさが宗春の政治家としての成長を妨げたことも事実です。
吉宗や後代の上杉鷹山が破綻した財政を引き継ぎ、苦労してゆく中で政治家として成長していったのに比べ、己の理想をすぐに実現できた宗春は、幸福だったのか、不幸だったのか。


愛・地球博でにぎわう町並みを眺めながら、大らかで優しい殿様のことを考えています。
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by fouche1792 | 2005-09-24 13:24 | 尾張徳川十七代
東海雑記にアップした記事を加筆訂正したものです>

1731年に家督を継ぎ、32年に吉宗の詰問を鮮やかに切り返した宗春
領民のみならず江戸っ子の人気も勝ち得たのですが、その栄光は長く続きませんでした。

そもそも宗春は政治家としては吉宗には到底かないません。

苦しい藩財政、幕府財政を引き継ぎ、水野忠之松平乗邑(のりさと)といった譜代大名、加納氏倫(うじのり)などの側近、大岡忠相(ただすけ。越前守。いわゆる「大岡越前」)神尾春央(かんお・はるひで。勘定奉行「胡麻と百姓は絞れば絞る程出るもの」というセリフは有名。享保の改革で年貢増徴を推進した )といった官僚など有能な人材をバランスよくどんどん登用し、組織立て、改革を展開していった吉宗。

それに対し宗春は己の政治理念を掲げ、規制を緩和するだけで、理念を具体化すべき手段をこうじることなく、政策を遂行する家臣にも恵まれず、というより育てず、星野織部など一部側近を重用するのみで、いたずらに譜代の老臣層との対立を深めました。

また経済の繁栄をもたらす反面、風紀は乱れました。万人が宗春のように高邁な思想を持っているわけでも、理解できるわけでもありません。ここでも宗春は壁にぶち当たります。

そして藩財政の悪化。
彼の治世は足掛け9年に及びますが、先代の倹約により黒字スタートの財政も、治世の終わりには11万両(およそ120~220億円)の赤字を残しています。

1736年にはそれまでの規制緩和政策を縮小。遊郭を撤去する旨の法令を出します。家臣にも節度を守り、怠惰に流れぬよう戒めました。

緩和から規制へ。宗春は挫折を味わいました。
ところが皮肉なことに、ライバルの吉宗も同じ年、政策を転換しています。
米価操作に苦渋した吉宗。貨幣を改鋳、その質を下げ、それまでのデフレ政策からインフレへと転じるとともに、米価の規制も緩和します。
また米価統制に取り組んでいた町奉行、大岡忠相を寺社奉行に「栄転」。町奉行は旗本の、寺社奉行は譜代大名の就く役職です。大岡忠相はついに大名となったのです(三河国西大平藩一万石)。江戸時代を通じて町奉行から大名になったのは彼ただ一人でした。しかしながらこの寺社奉行というのは譜代大名若手の出世コースの入り口であり、町奉行として活躍した老年の忠相には実のない名誉職で、実質は「左遷」でした。吉宗とすれば十二分な働きをした忠相の労をねぎらう意味合いもあったでしょう。松平乗邑などは罷免されているのですから。それでも仕事人間だった忠相には単なる名誉職など苦痛以外の何物でもなかったようです。ましてや米相場安定のため、商人たちとの対決に決着が就く直前の「栄転」だったのですから。


一方が規制強化したら、もう一方は緩和。吉宗と宗春、とことん反対のことをやっているんですね。



1737年、財政悪化により、宗春は農民、商人に上納金の割り当てを命じ、民衆の人気を失います。
一体、楽を共にするのはよくても、苦は共にできないのが人情。どんな名目であれ、税と聞くと反発するもの。
国民人気とはまことに浮ついたものですね、●泉さん。

これを見た藩重臣は宗春失脚を画策します。
尾張藩付家老(家康側近が御三家家老となった、特別な家柄。大名並みの知行を与えられ、三家の藩政を担当しました)の竹腰正武は幕閣と連絡を取り合い、陰謀を練りました。宗春排除の口実を見つけられた幕府は渡りに船と飛びつきます。

そして1739年。ついに宗春に隠居謹慎の命が下りました。
「身の行跡がよろしくない。国政も乱れ、士民も困惑している」
というのがその理由です。
宗春の規制政策が実を結びつつある矢先でした。

剛毅で鳴らす宗春のこと。隠居謹慎の命を伝えに来た者たちも、いざというときのために取り縄を用意していたほどでした。
ところが宗春はさばさばした様子で、おとなしく幕命に従ったそうです。
どこまでもさわやかな男でした。

後継は従兄弟で支藩藩主であった宗勝。彼と、その子宗睦(むねちか)の時代は、尾張藩苦渋の時代で、財政再建のため倹約令が次々と出されます。

そう、領民は自分たちが失ったものの大きさにやっと気づいたのでした。
宗春赦免を願い、家財没収にあった商人がいます。また人々は宗春の治世を懐かしみ、それを

「遊女濃安都」(ゆめのあと=夢の跡)
という本にまとめました。

夢のごとく宗春とその治世は、光り輝く時代は過ぎてゆき、尾張名古屋は静けさを取り戻しました。


次回は締めくくり。「消えた宗春」です。
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by fouche1792 | 2005-09-23 11:56 | 尾張徳川十七代
<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>

吉宗は最初、宗春と対立する気はありませんでした。
苦労人で現実家の吉宗です。紀伊家から将軍位を継いでより、老中をはじめ周囲の人間関係、ことに尾張家との関係には気を配ってきました。
むしろ宗春に対しては自分と同じ境遇――部屋住みから小藩の当主、更に三家の当主というシンデレラボーイぶり――に親しみを感じていたかもしれません。
また御三家の高い格式は将軍と言えどもうかつに手出しできないものでした。格式を軽んじれば、すなわちそれを定めた神君家康、ひいては自分の権威も軽んじることになるからです。

とはいえ、自分の政治を否定し、それが庶民の人気を得ている様は面白くありません。尾張領内ではともかく、将軍のお膝元である江戸での行動には流石に目をつぶることができなかった(あるいは許されなかった)のでしょう。
極秘に上使を遣わし、以下の三か条を詰問しました。

1.自領ではともかく、江戸において物見遊山するとはけしからん。他の大名へのしめしがつかぬ。
2.先日の嫡子万五郎の端午節句祝いに町人まで引き込むとは軽率ではないか。
3.日ごろより幕府の出している倹約令を無視しているのはなぜか。三家は幕府に準ずるのだから率先して模範を示すべきではないか。
  (註 内容を思い切り縮めて意訳してます)

対して宗春は

「三か条のお咎めは誠にごもっとも。深くお詫び申し上げる。これからは身を慎み、行跡を改め、倹約令も守るゆえ、どうかよろしく(将軍に)お伝え願いたい」

と素直に聞き入れました。
使いに立った旗本たちも一安心。
しかし、このままでは終わらないのが宗春です。

「御使い大儀であった。ところであちらに酒肴を用意しておる。ついでに世間のことを話したいので、ゆるゆると休息召されい」

と別室へ案内してから本音をぶちまけます。
これは将軍上意であれば、お受けしなければ間に立った使いの者たちが切腹する羽目になるからです。上意でありますから、反論なんてありえないのです。一旦は「ごもっとも」と受けた上で、あくまで世間話として、「いや、実はですね」と本論に移ったわけです。

1.物見遊山の件。自領ではよいが、江戸表では許さんという。他の大名の中にはそうしているものもいるだろう。しかし私はそういう表裏ある行動が嫌いなのだ。自領でもわがままを言って民を苦しめているわけではない。
2.端午の節句の件。軽率だと言うが、町人に見せてはならぬという令がいつ出されたのか。

そしていよいよ宗春の持論に移ります。

3.倹約令を守らないと言う。私は私なりに倹約をしているつもりだ。ただ、将軍家が倹約の根本をご存じないので、お分かりにならぬのだろう。

では宗春の言う「倹約」とは何でしょうか。

現代風に言い換えれば、こうです。
上に立つもの、幕府が倹約をし、それを下のものに強制するのは経済を沈滞させます。現代と異なり、幕府は納められた税を国民に還元することはまずありません。幕府の蓄財は文字通り金を蓄えること。我々で言う「タンス預金」に他なりません。
ですから領主個人の浪費でのみ、金は還元され、経済は活発になり、領地は富み栄えるのです。
いわば「華美の経済学」とでも申しましょうか。

宗春が浪費好きのバカ殿でないのは、彼の浪費が「確信犯」であるからです。もちろん生来の好みもあるのでしょうが。

なんとも鮮やかに反論を繰り広げたものです。
「世間話」とはいえ、当然、吉宗の耳にも入ることを計算して、しかも間に立ったものがお咎めを受けないように考えての行動です。
ここに私は宗春の吉宗に対する、ある種の信頼をさえ感じます。吉宗がぼんくらであればいくら私的な「世間話」とはいえ、激怒し、自分を含め関係者も無事ではすまないでしょう。
 吉宗ならそんなことはしないだろう
そこまで読んだ宗春は、暗に吉宗の英明さを認めていたのでしょう。


ところがこの後より宗春はだんだん窮地に追い込まれていきます。

宗春を追い込んでいったもの、さらに引退までさせたものは、吉宗でも紀伊家でもなく、皮肉にも自国の士民と家老たちでした。
あれほど領民に慕われ、崇められていたのに、どうしたわけでしょうか?

次回は「挫折と退陣」です。
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by fouche1792 | 2005-09-22 10:06 | 尾張徳川十七代
<この記事は平成17年2月19日に東海雑記で書いたものを加筆したものです>

宗春の政策は、単なる吉宗への反発、というものではありませんでした。
吉宗には「幕府財政の安定、強化」という目標がありましたし、宗春はその吉宗の政策を反面教師として「四民享楽」を目標としていました。両者ともそれぞれのポリシーがあったのです。

まず自身が奇抜なファッションで身を装い、人々の注目を集めます。藩士・領民に対して、「今までの殿様とは違うんだ」、「新しい政治が始まるのだ」というイメージを打ち出したのです。

次いで名古屋城下にそれまで禁じられていた遊郭の設置を認めました。
遊郭、というと不道徳なイメージがあります。もちろん、そういった面もありますが、娯楽の少ない当時の社会においては社交場としての役割も果たしていました。
人の集まるところ、お金も集まります。遊郭のような夜遅くまでにぎわうところでは特に、です。一種の商店街、文化センターが形成され、人々はそこで歓談しました。

芝居小屋も次々と立ち並びました。江戸時代の改革では、遊郭と並んで必ず槍玉に挙げられるのが芝居。儒教道徳に反するから、でしょうか。徒に消費を拡大するから、でしょうか。このときも江戸、大坂、京都などで芝居が制限されていました。他国で禁じられているからこそ、名古屋に集中した――「芸どころ名古屋」の形成に宗春だけでなく、吉宗も意外な形でかかわっていたのです。

また東照宮祭礼、盆踊りなど各種イベント開催を開催。領民こぞって熱狂。宗春の世に生まれてよかったと言う声がいくつかの史料に残っております。

  名古屋の繁華に興(京)がさめた

という秀句が作られるほどのにぎわいを迎え、光り輝いたのでした。


宗春の行動は将軍のお膝元、江戸でも変わりません。
嫡子万五郎の端午の節句祝いに、きらびやかな旗・幟を立て、自分の屋敷を江戸市民に開放。目玉の見世物は尾張家家宝の神君家康公の幟。相次ぐ倹約令で娯楽に飢えていた町人たちは、この奇抜な見世物こぞって見学。非常な人気を得ました。
当時の落書にこんなものがあります。

 公方、乞食に似たり
 尾張、天下に似たり

江戸市民の圧倒的な人気を得、宗春は得意の絶頂でした。

もちろんこんな振る舞いを吉宗が許すはずはなく、秘密裏に糾問の使いを繰り出します。
吉宗と宗春が初めて対決したのは実にこのとき。
宗春は吉宗に対し一歩もひかず、独自の政治理論を展開します。
果たしてその内容とは。
時代は、民衆は、どちらの君主を支持したのか。


次回「華美の経済学」でご紹介します。
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by fouche1792 | 2005-09-21 14:26 | 尾張徳川十七代

7代 徳川宗春

<この記事は05年2月17日『東海雑記』に書いたものです>

中京の繁栄の基を築いた理想主義者


今日2月17日、中部国際空港、セントレアが開港しました。
そして3月15日には愛・地球博の開催。
開催に向け、JR,私鉄、地下鉄の駅もどんどんきれいに、新しくなってゆきます。

以前「尾張徳川家について」をUPしましたら、たくさんの方からコメントをいただきました。皆様の関心の高さに改めて気づかされました。
他府県の方から「名古屋はがんばってるね」と言われることもしばしば。
「名古屋ががんばっている」この状況、今から300年ほど前にも同じことがありました。

その頃は8代将軍徳川吉宗による「享保の改革」の真っ最中。
倹約倹約と緊縮政策を推し進め、世の中の火が消えてしまったようになった頃、ひとり名古屋だけが明るく瞬いていました。
尾張藩7代藩主、徳川宗春(とくがわ・むねはる)の積極策によるものです。多くの規制を緩和し、遊興や祭礼を奨励。消費は拡大し、上方(京都、大坂)・江戸の商人・芸人は続々と名古屋に集まり、現代の中京の基となる繁栄を招きました。

吉宗と逆の政策を打った宗春。
とはいえ宗春はいたずらに吉宗に逆らっていたわけではありません。よく言われる、8代将軍をめぐっての尾張と紀伊の争いに敗れたことを恨んででもありません。宗春はそんな小さな枠に収まりきれないほど、ユニークな殿様でした。

徳川宗春は3代藩主徳川綱誠(つななり)の20男として生まれました。何事もなければ部屋住みとして、捨扶持を与えられ、朽ちていったことでしょう。しかし一族の相次ぐ死により、陸奥梁川3万石、ついで尾張藩61万石を相続。一代の幸運児でありました。ここまでの道のりは吉宗とよく似ています。吉宗も部屋住みから小藩の藩主、紀伊徳川家の当主、そして将軍へと昇り詰めたのです。

かように良く似た境遇の二人でしたが、性格は正反対。現実的でしたたかな政治家であった吉宗と、理想主義で派手好きな宗春。
宗春の政治思想は彼自身の著した『温知政要(おんちせいよう)』にあらわれています。政治の要は「仁」であり、慈悲と忍耐で行っていく、これが宗春の理想でした。
人間の本性は善であるとし、治世9年間の間に一人の処刑者も出さず、「民とともに楽しむ」世の中を目指しました。
封建社会にあって「人の好みは人それぞれである」と個性を尊重するような発言もあります。

では宗春はどのような政治を展開し、挫折したのか。
引き続きご紹介してゆきたいと思います。
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by fouche1792 | 2005-09-18 11:06 | 尾張徳川十七代

尾張藩歴代藩主

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尾張徳川家には16人の藩主がおりました。

初代 義直(よしなお)  1600~1650(在位1607~1650、以下同じ)

徳川家康の九男。

1603年 甲府25万石

1607年 兄松平忠吉の跡を受け尾張清洲城主となる

1610年 名古屋城に移る




二代 光友(みつとも)  1625~1700(1650~1693)

義直の長男。

正室は将軍家光の娘、千代姫。このときの嫁入り道具が徳川美術館に展示されている



三代 綱誠(つななり)  1652~1699(1693~1699)

光友の長男(実は次男。兄義昌は母が側室のため三男とされた)

在任中は隠居光友が政治を行っていた。

嫡子吉通がまだ幼いため、同母弟松平義行に後見を頼んだ


四代 吉通(よしみち) 1689~1713(1699~1713)

綱誠の九男。

一時将軍家宣の後継者に目されていた。

五代 五郎太(ごろうた) 1711~1713(1713)

吉通の長男。わずか三歳で家督を継ぐも二ヶ月で死去。



六代 継友(つぐとも)  1692~1730(1713~1730)

はじめ松平通顕(みちあき)。綱誠の十一男。

八大将軍をめぐり、紀伊吉宗と争ったが敗れた。


七代 宗春(むねはる)  1696~1764(1730~1739)

はじめ松平通春(みちはる)。綱誠の二十男。

1729年に奥州柳川三万石

1730年 兄継友の急死後、尾張藩主

1739年 将軍吉宗より隠居謹慎を命ぜられる

*享保の改革を推進した吉宗に真っ向から対立し、名古屋の繁栄の基礎を築いたとされる、

 おそらく尾張家ではもっとも人気のある君主。


八代 宗勝(むねかつ)  1705~1761(1739~1761)

はじめ松平友相(ともすけ)。後友淳(ともあつ)。

分家川田久保松平友著の長男。

1732年 分家高須松平家相続。松平義淳(よしあつ)と改名

1739年 尾張家相続

徹底した倹約令で藩財政の立て直しを図った。

*在任中に木曽三川宝暦治水工事があった

 


九代 宗睦(むねちか)  1732~1799(1761~1799)

宗勝の次男。藩校明倫堂を創設。新田開発、文教政策など藩政改革に努めた。

後継者が皆早死にしたため、一橋家より養子を迎え、

ここに初代義直の血統は断絶した。


十代 斉朝(なりとも)  1793~1850(1799~1827)

一橋徳川家治国の長男


十一代 斉温(なりはる) 1819~1839(1827~1839)

将軍家斉の十九男。


十二代 斉荘(なりたか) 1810~1845(1839~1845)

将軍家斉の十一男。

1836年 田安徳川家相続

1839年 尾張家十二代藩主となる

相次ぐ押し付け養子政策に藩内の反幕感情が高まった


十三代 慶臧(よしつぐ) 1836~1849(1839~1849)

田安徳川家斉匡の七男。


十四代・十七代 慶勝(よしかつ)  1824~1883(1849~1858;1870~1873)

高須松平家義建の次男。

弟に十五代藩主茂徳、会津松平家の容保、桑名松平家の定敬、いとこに将軍慶喜がおり、

それぞれが幕末の政局で活躍した。

*青松葉事件が起こり、藩内を勤皇に統一。


十五代 茂徳(もちなが) 1831~1884(1858~1863)

はじめ松平義比(よしちか)。慶勝の弟。

1850~1858高須藩主。

兄が井伊直弼に隠居させられた跡を受け、尾張藩主となる。

徳川慶喜の将軍就任後一橋家を相続


十六代 義宜(よしのり) 1858~1875(1863~1870)
慶勝の子。慶勝の政局復帰後藩主となる。

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by fouche1792 | 2005-09-17 08:32 | 尾張徳川十七代