江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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カテゴリ:尾張徳川十七代( 47 )

さて、6代継友(つづとも)を語った後は7代の宗春(むねはる)になるのですが、宗春の業績ついては以前に述べましたので、今回は以前紹介できなかったエピソードを書きます。


享保十八(1733)年11月、宗春が藩主となって3年目のこと。
闇の森(くらがりのもり)八幡社境内(現名古屋市中区)で心中未遂事件がありました。
事件を起こしたのは遊女・小さんと出入りの畳屋・喜八。

喜八は遊女屋に通ううちに小さんとなじみとなり、夫婦の約束まで交わすようになりました。

しかし周囲がそれを認めるわけはありません。そこで心中を思い立ったのでした。

封建時代の男女の恋愛は非常に窮屈で、身分の壁、年齢の壁、さまざまな障害を乗り越えなければなりませんでした。もちろん、当時の結婚は家同士の結びつきですから、当人同士の気持ちなど二の次、三の次。当時(江戸~明治)の「姦通」は、今の「不倫」とは大きく異なっておりました。

「姦通」というと響きが悪いですが、上記のような男女の事情ですから、誠に純なものが多かったそうです。

そして現世で添い遂げられる望みがなければ来世でと、「心中」をいたします。


<*私は「心中」という行為自体を賞賛しているわけではありません。当時の人の考え方を紹介しているだけです。個人的には心中は「逃げ」だと思います。>


お上はこのような「風紀の乱れ」には敏感です。特に時は文武を奨励した吉宗の世。
幕府は享保7年(1722)・翌年と心中禁止令を出しましたが、その条文のなかで「心中」という言葉自体を不当なものとして代わりに「相対死」という言葉を用いています。
なぜなら「心中」は武士の動議である「忠」を分解した言葉。主君に対する愛を貫く忠に対して、男女の愛を貫く町人の意地を表した言葉だからです。
吉宗の時代には、それまで大坂周辺で続発していた心中は、江戸へも飛び火して流行のようになっていました。吉宗は、心中した者を

「人間の行いではない」、「動物と同じ」、「死んだものは丸裸にして、野外に捨て置け」

と言ったそうです。


当然心中未遂も重罪で、両方が生き残った場合、生き延びた男女は3日間さらし者にされた上、身分を落とされました。

身分を落とされれば元の暮らしにも、元の家にも戻れません。もちろん添い遂げることもできませんでした。

さあ、宗春はこの心中未遂事件にどのように対処したでしょうか。


宗春は法の定めるとおり、二人を三日間のさらし者にしました。

ところが、この後が問題です。

三日間の処罰が過ぎた後、二人は許されて親元へ帰されたのです。

後に二人ははれて夫婦になり、男の子に恵まれたそうです。


この粋な計らいは評判を呼び、この辺りを通りかかった、豊後節の祖、宮古路豊後掾が浄瑠璃にまとめあげ、「名古屋心中」とよばれました。この浄瑠璃は名古屋だけでなく、江戸でも上演され、大ヒットしたそうです。

しかし、この「名古屋心中」も元文4(1739)年、宗春失脚の年に全面禁止となり、それ以後長い間上演されませんでした(2002年、260年ぶりに上演)。


不思議なのはそれまで上演が黙認されていたことです。

当時の江戸町奉行はあの大岡越前守忠相(ただすけ)。その大岡が「新作心中浄瑠璃禁止令」を出していたにもかかわらず、禁止されなかったのです。


人々はそこに宗春の影を見ました。

正直なところ、本当のことは分かっていません。

二人を許したのが宗春の計らいなのかも、陰ながら浄瑠璃を保護したのかも。

それでも普段の言動から、宗春をこの粋な計らいに結びつけることは容易なことでした。

宗春は庶民に愛された殿様だったのでしょう。
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by fouche1792 | 2005-10-07 12:06 | 尾張徳川十七代
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正徳6年(1716)4月30日、将軍家継が死去。後継者を巡り、幕閣、大奥も二派に別れました。
家継の母・月光院、側用人の間部詮房(まなべ・あきふさ)尾張継友(つぐとも)
6代将軍家宣の正妻・天英院と譜代大名たちは紀伊吉宗
それぞれ推しました。

結果は皆様ご存知のとおりです。吉宗がはれて8代将軍を継ぎました。

継友、及び尾張藩としては御三家筆頭であり、祖母が将軍家光の娘であることもあって、将軍になるのは当たり前と思っていたようです。そのため、これといった根回しも活動もしていませんでした。
対する紀伊家では前々から大奥・幕閣にもしっかり働きかけ、尾張家にも間者を放つなど努力を怠りませんでした。
何より綱吉の寵臣、柳沢吉保以来側用人の勢力拡大を恐れた譜代大名たちの支持を取り付けたことが大きかったようです。

公平に見れば経験豊富な吉宗がこの時期に将軍になったのは幕府にとっても日本にとっても幸運でした。
吉宗はこの後、いわゆる>「享保の改革」を推し進めていきますが、自分を支持してくれた譜代大名層やかつてのライバル尾張家に気を配ることは忘れていません。

もしも継友が将軍になっていたらそこまではできなかったでしょう。家督相続のときの行動を考えれば、他への気配りはあまり期待できそうにありません。
やはり若いときから苦労している吉宗にはかなわないでしょう。


この後継友は物価の高騰や名古屋大火など度重なる天災人災克服し、財政を再建。弟宗春の飛躍はゆたかな尾張の土地柄とこの兄あってのことでした。

1718年結婚。1722年には側室との間に男の子(八三郎)をもうけますが、翌年早世。さびしい家庭でした。
1730年、麻疹と思われる病気で死去。弟宗春に後を託しました。
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by fouche1792 | 2005-10-05 14:08 | 尾張徳川十七代
1716(正徳6年、6月に享保と改元)年、将軍家継が数え年8歳で死去。当然子供はいません。ここで初めて御三家のいずれかが8代将軍になる可能性が出てきました。
1716年時点での尾張家、紀伊家の系図を掲げます。クリックすると見やすくなります。
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このとき候補に挙がったのは尾張家6代の継友(つぐとも)25歳と紀伊家5代の吉宗35歳。
水戸家は御三家とは言え、家格が低いため、最初から候補には入っていませんでした。

継友は1713年に兄、甥の死により家督を継ぎ、倹約に努め財政回復を図っていましたが、吉宗と比べると見劣りがするのは事実。
何しろ部屋住みが長かったため、尾張家を継ぐことが決まったとたん、酒宴を始める始末。自分自身はめでたいとは言え、先々代、先代の死を考えれば顰蹙ものです。これには重臣たちもあきれたとか。どうも先々のことを深く考えない性格のようです。

軽率なことは事実としても、継友の身になれば分からないこともありません。
江戸時代、大名、武家の次男以下は血のスペアとしての存在でしかありません。男尊女卑で女性が貶められていた封建社会の中で、その女性よりも低い価値しかありませんでした。
女性なら他家に嫁ぐなり、側室になるなり、身を立てる道はいくつかありました。しかし大名の次男以下の男たちは分家するか、家臣となるか、他家に養子に行くか、そうでなければ「部屋住み」として生涯飼い殺しにされました。江戸中期ともなれば分家するにしても、家臣となるにしても、そんな経済的余裕などあるわけもなく、他家から養子の声がかかるようにせっせと文武に励むしかありません。
しかも継友の場合、実質上の次男(早世した兄弟を合わせれば11男)でしたので、「おひかえ」として他家に養子に行くことも許されませんでした。「おひかえ」とは嫡男が万一死んだときのためのスペアです。
系図をご覧になればお分かりのとおり、弟(義孝)が分家の養子となるのを指をくわえてみているしかありませんでした。
そして、部屋住みの間は結婚も許されません。結婚して子をなし、一家を構えればそれは分家ですから。

それが御三家筆頭の当主となったのです。しかも7代将軍家継は病弱でしたから、うまくいけば将軍になれるかもしれないのです。
おそらく継友はかなりハイになったのではないでしょうか。


一方の吉宗もこれまた幸運で紀伊藩主となった男です。
系図でもお分かりのとおり、父、兄たちが次々に死んで1705年に5代藩主となりました。
ただ宗の名前から分かるように、当時はまだ5代将軍綱の世。紀伊藩主となったからといえ、次は将軍になれる、という予想は全くつかなかったでしょう。家のときに尾張家を継いだ友との違いの一つです。
また当時の紀伊家は深刻な財政難で、手放しで藩主就任を喜べる状況ではありません。継友との違いの二つ目です。吉宗はその紀伊藩を引き受けてからは浮かれることなく、後の「享保の改革」の原点となった改革をしてゆきます。そして着実に成果を上げていきました。
吉宗が将軍と決まったときに一番がっかりしたのは尾張家でも、継友でもなく、紀伊の領民だったそうです。それほど吉宗は領民から慕われていたのでした。


1716年、家継が死んだ時点で吉宗は藩主就任10年、着実に実績を重ねていました。一方の継友は藩主就任3年、これといった実績もありませんでした。
それでも継友は自分が将軍になるものだと思っていました。
その根拠は何だったのでしょうか。


次回は「8代将軍決定と不遇の後半生」です。
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by fouche1792 | 2005-10-04 16:37 | 尾張徳川十七代
<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>

五郎太(ごろうた)。この聞き慣れない名前は尾張徳川家代々の嫡男が名乗っていた幼名です(ちなみに将軍家嫡男の幼名はご存知竹千代)。

尾張徳川家初代、義直の幼名は初め千千代といいましたが、後に五郎太と改めました。城壁を築く時に楔(くざび)として打ち込む石を五郎太石(ごろたいし)といいます。石垣の大きな石と石の間につめます。家康は義直が天下の楔になるように、という願いを込めて五郎太と名付けたそうです。

尾張藩5代目藩主、五郎太は元服前に死去しましたので諱(いみな、本名)はありません。
1713年わずか2歳7ヶ月で家督を継ぎましたが2ヶ月で死去。当然子供はなく、6代目を継いだのは叔父の通顕(みちあき)。将軍家継より一字をもらい、名を継友(つぐとも)と改めます。時に22歳でした。

嫡流に生まれたために幼児であることお構いなしに家督を継がされた五郎太。
幕府・藩が安定してくると、将軍や藩主個人の力量よりも血筋の正しさが求められました。幼児であろうと存在さえしていれば藩は存続し、家臣の生活も安定するのです。将軍も殿様も「そこにいればいい」という飾りだけの存在となりました。

もしも五郎太が当主の座に着かなければ、いま少し長生きできたかもしれません。
もとより体の弱い子供だったので断言はできませんが、藩主として表に出ざるを得ない生活がこの子の命を縮めたのかもしれません。
それにしても藩主として、飾りとしてだけ存在していたのでは、この子の2年数ヶ月の一生は何だったのでしょうか。あまりにもかわいそうです。

それは7代将軍となった家継も同じでした。
家継は将軍位にあること4年、1716年、わずか8歳(数え年。満6歳9ヶ月)で世を去りました。

ここに8代将軍を巡って、尾張と紀伊、継友と吉宗の争いが始まったのです。
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by fouche1792 | 2005-10-03 14:54 | 尾張徳川十七代
<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>
吉通(よしみち)の名君ぶりも伝えておきましょう。
吉通は武にすぐれ、尾張柳生の九世伝承者でありました。
尾張柳生流とは柳生新陰流の正統継承流儀で、そのため、正伝柳生新陰流ともいいます。伝承者の中には時代小説でも有名な柳生兵庫助柳生連也斎などもいます。
ちなみにこれも時代小説のヒーローである柳生十兵衛は江戸柳生の剣士であり、尾張とは別系統となります。
もっとも吉通の伝承者継承は尾張藩主ゆえ、という見方もあります。が、いわゆる「殿さま芸」の域を脱していたことは確かです。

どうも先に述べた水練のことといい、大酒のみであったことといい、体力には自信があったようです。

その他儒学・国学・神道を修め、木曽山林政改革に取り組んだそうです(江戸時代、木曽の山林は尾張家のものでした)。
今の宮様同様、当時の殿様は学問に熱心でしたから、これだけでは名君とはいえないでしょう。また、木曽山林改革は叔父の松平義行の功でしょう。
でもこれを見る限り、少なくともバカ殿ではなさそうです。

では、先日述べたようなバカ殿ぶりは一体どうしたことでしょうか?
ここに吉通の母親、お福の方(3代綱誠(つなのぶ)死後は落飾して本寿院と呼ばれました)の悪影響がありました。

本寿院はよく言えば「情熱家」「享楽家」、ストレートに言えば性欲の強い人だったようで、綱誠死後、35歳で落飾して後も藩士や役者、出入りの町人たちを屋敷に引っ張り込み、あれこれと噂が立てられました。「千姫ご乱行」などのモデルになった女性です。
吉通はそんな母をかばい続けましたが、重臣に疎まれ、ついに母は藩邸に閉じ込められてしまいました。

藩主の生母でなければ別の生き方もあったのでしょうに。
西洋でもイングランド国王ヘンリー6世の母キャサリンは、結婚後2年足らずで夫(ヘンリー5世)に先立たた後、ずっと未亡人として再婚も許されませんでした。国王の母に悪い虫がついたら大変、と言うわけです。
それでもひそかに納戸役のオーエン・テューダーと結婚。ちなみにこの二人の子供の子孫がかのエリザベス処女王に連なるテューダー王朝になるのです。
キャサリンはまだ幸せでした。秘密裏とは言え、恋する人と結ばれたのですから。
哀れなのは本寿院です。『元禄御畳奉行の日記』、朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」によれば男を絶たれ、ノイローゼになった本寿院が屋敷内のもみの木につかまって、奇声を発したと言う噂まで書かれています。


そのような享楽的な母と、持ち上げることしか知らない側近の悪しき影響が名君たりえたかもしれない若者の心を蝕んでいったのでしょうか。

体だけは丈夫になった吉通の命を奪ったのは酒でした。
1713年、自分を後継にと考えてくれた将軍家宣の死の翌年のことでした。
享年25歳(数え年)。
別の史料では饅頭を食べて死んだと書かれています。
どちらにせよ、あまり格好のいい死に方ではありません。
ただこれも黒い噂があって、苦しみ出した吉通を、医師はおろおろするばかりで何の手当てもしなかったそうです。近臣たちも同様。わが身のことばかり考え、おろおろするばかり。あまつさえ、吉通が死んだとなるや、調度などを盗む始末。
一部の小説やドラマではこれを紀伊家の暗殺とするものもありますが、確かにそれも疑われるべき状況ではあります。ただ、吉通が死んでも、嫡子の五郎太がおり、弟たちも健在でしたから、そこまでの危険を冒したかどうか。いずれにせよ、真相は藪の中です。

こうして8代将軍に最も近かった男、吉通はあっけなく死んでしまいました。
後を継いだのは嫡子五郎太。わずか3歳でした。


次回はその五郎太のお話をいたしましょう。
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by fouche1792 | 2005-10-01 15:51 | 尾張徳川十七代
<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>
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同じような名前ばかり出てくるので、ややこしいですね。
家宣死去(1712年)時点での系図を作ってみたので参照して下さい。


徳川吉通(よしみち)は三代藩主徳川綱誠(つなのぶ)の9男として誕生しました。9番目の男子である彼が家督を継いだのは、それ以前に生まれた子供がみな早世したからであります。
綱誠という人は子沢山で、なんと21男17女、計38人の子供をもうけています。尾張家歴代でもトップです。
しかし、この38人の中で綱誠の死後も生き残り、成人まで育ったのはわずか6人。

吉通、通顕(みちあき、後の6代藩主継友)、義孝(尾張家分家高須松平家を継ぐ)、通温(みちまさ)、通春(後の宗春)、そして松姫(加賀藩主前田吉徳室)。

これ以外はほとんどが1~3歳(数え年。満で言うと0~2歳)で死去しています。
(ちなみに末っ子の松姫は綱誠が48歳で死んだ半年後に生まれております。)

この時代、特に大名家の乳幼児の死亡率は高く、11代将軍家斉も歴代最多の55人の子供をもうけましたが、そのうちの34人が早世しています。
これは当時の医学レベルが低かったこともありますが、一番大きな原因は乳母たちが胸までぬっていた白粉に鉛が含まれていたためだそうです。
身分が高いのがあだになるとは、何と皮肉なことなのでしょう。

それにしても綱誠の胸中はいかばかりであったか。
子供ができても片っ端から死んでゆく。
当時の大名の重要な使命は跡継ぎをもうけることでした。綱誠はあせったでしょう。
まるで女王蜂か女王蟻のように次々に子供をもうけていくさまは哀れでさえあります。
(ですから、私は秀吉の女漁りを一概にとがめられないのですが。。。)
今で言えば
「あそこの嫁はまだ子供を生まんのか」
みたいなものすごく失礼な陰口がたたかれ、プレッシャーを感じていたでしょうね。

そんな中でやっと育った吉通。
四歳で(兄たちが死んでしまったため、)嫡男として扱われ、名前をそれまでの藪太郎→吉郎から、尾張家嫡男の証、五郎太と改めます。七歳で嫡男としてお披露目されます。
しかし、彼が元服したのは11歳のとき。先日申しましたように将軍綱吉から一字をもらい吉通と名乗るのですが、これは父綱誠の死去があったため。それにしても遅い元服です。
元服とは今で言う成人式のことですが、この時代の大名家では嫡男はとにかくはやく元服させ、当主がいつ死んでもいいように準備するのが普通。吉通の祖父光友は9歳、父綱誠は6歳で元服しています。
これはやはりどこまで育つか不安だったからではないでしょうか。
吉通の前では6歳まで生きていたのが最も長生きでした。吉通の弟にはせっかく12歳までそだったにもかかわらず、早世した者もいます。

吉通を語る場合、まずこのガラスの置物を扱うかのような大切な育てられ方は無視できないと思います。
吉通は宗春のような個性にあふれた殿様ではありません。記録をたどってみても彼がどんな人物だったか、あまりわかりません。これもその育ちゆえかと思われます。

吉通については英邁であった、というものもあれば、暗愚であった、というものもあります。
例えば『元禄御畳奉行の日記』で有名になった、尾張藩士朝日文左衛門「鸚鵡籠中記」に描かれているのはこんな姿です。

・無類の酒飲みで、東海道53次の宿名をつけた杯53杯を次々と飲んだ。しかも、「上り」「下り」と称して何往復もした。
・水練(水泳)をするためにプール(大きな桶でしょう)を作ったが、水が冷たいので湯を沸かさせ、入れた。しかもプールが漏れていたため、せっかく作ったのにすぐやめてしまった。

なんとまあ、あきれるバカ殿さまではありませんか。
もっとも朝日文左衛門が書いたのはあくまで噂。しかも下級武士の耳に届く噂ですから真偽のほどは定かではありません。
それでも下級の家臣にまで変な噂をささやかれるほど吉通がだらしないか、当時の尾張藩がゆるんでいた、とも言えます。

そんなこんなでなぞの多い吉通ですが、はっきり言えば影が薄い。
11歳で藩主となった、ということですから、政治ができるわけはありません。
彼を支え、藩政を見たのは叔父の松平義行(よしゆき)でした。
吉通の名君という評判は義行の功かもしれません。多分そうでしょう。
ここら辺はやはり11歳で家督を継いだ4代将軍家綱と叔父の保科正之(ほしな・まさゆき:家光の異母弟で、会津松平家祖)の関係にそっくりです。そういえば家綱も影の薄い将軍でした。


大切な跡取りとして乳母日傘で育てられ、影の薄かった吉通。
家綱以外にもう一人思い当たる人物がいます。
そう、豊臣秀頼。秀頼には淀殿という個性の強いお母さんがいて、その影に隠れてますが、吉通にもそれはそれは個性的なお母さんがいたのです。


次回「恋多き母となぞの死」でお話しましょう。
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by fouche1792 | 2005-09-30 13:04 | 尾張徳川十七代

大名の名前について

吉通の話を進める前に、大名の名前について整理しておきたいと思います。

日本史の苦手な方、嫌いな方に話を伺うときよく聞かれるのが

「人物の名前がね、よく似ててね、誰が誰だか、こんがらがるのよね~」

というお言葉。なるほど、ごもっとも。

例えば藤原長の兄弟は
 隆・兼・
と皆「道」の字がついてます。ややこしいですね。

日本の場合、親や祖先、兄弟の名前から一字もらったり、主君が家臣に自分の名(諱:いみな、元服時に名乗る本名のこと)の一字を与えたりします。だから一族で似た名前が多いのですね。

これを「通し字」と「偏諱」(へんき)といいます。

通し字とは一族で共通の一字を使うことです。
藤原氏の時代は先ほどのように兄弟――系図で横並び――で通し字を持っていましたが、武家の時代になりますと系図の縦ラインで通し字を持つようになります。
足利将軍家の「」(満、政、昭など)や徳川将軍家の「」(康、光、綱、など)などがそうです。徳川将軍の「家」は源義家にあやかったそうです。

ですから名前に「」がつかない将軍は2代将軍の秀忠を除けば、傍流(嫡流でない、次男以下の家)から将軍になった人ばかりです。
綱吉(5代)、吉宗(8代)、慶喜(15代) がそうですね。
宣(6代)、斉(11代)、茂(14代)も傍流から将軍家を継ぎましたが、そのとき元服したか名前を変えたくちです。

では秀忠はどうかといえば、忠の「秀」は豊臣吉の「秀」をもらったのです。もちろん、秀吉から。
これが「偏諱」です。偏諱とは主君など身分の高い人の名前の一字をもらうことです。偏諱を受けることは義理の親子であることを意味します。ときに忠誠の証として、あるいは褒美として与えられました。
秀忠が元服した頃はまだ豊臣の世でしたから、家康の子、次男康と三男秀忠は秀吉から偏諱を受けたのです。

そして徳川の世になると徳川将軍が武家のトップになりますから、大身の大名や武士たちは将軍から偏諱を受けました。

先ほどの吉は兄である4代将軍、家から。
宗はその綱から、さらに以前にお話した尾張家の春はその吉から一字をもらったのです。

御三家は皆トップクラスの大名ですから、当主と嫡男は将軍から一字をもらいます。ですから逆にその字を見ればどの将軍の時代に元服したか、どの時代に生きていたかが大体分かります。

御三家の中で最も有名な水戸家の徳川圀(水戸黄門)は3代家の時代に元服。4代家綱と次の綱吉の時代に活躍しました。
今回の主役である徳川通は吉宗と同じく綱吉の時代に元服。綱吉と次の家宣の時代に藩主を務めました。
尾張家の宗春ははじめ松平通春(みちはる)と名乗っていました。春とは兄であり、主君である吉通の字をもらったものです。そして吉宗の時代に尾張家を継ぎましたから、宗春と名乗ったのです。
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by fouche1792 | 2005-09-29 12:33 | 尾張徳川十七代
<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>

愛知万博も終わりました。なぜか列車「エキスポシャトル」は今も走っていますが。。。
開催まで紆余曲折していましたが振り返ってみれば大盛況。たくさんの方が名古屋を訪れました。
思えば1988年、名古屋は「名古屋にオリンピックを」と異様なまでに盛り上がり、激しい招致合戦の結果最終的にソウルに決まり、激しく落ち込みました。今回の万博でイベント招致に成功しても開催まではどこか冷めた雰囲気があったのはそのせいでしょうか?


さて江戸時代中期、宗春登場以前にも同じように名古屋は挫折を味わっています。
ここで宗春以前の名古屋の殿様のお話しをしましょう。

生類憐みの令」で庶民を苦しめた「犬公方」五代将軍徳川綱吉の後を継いだのは、甥の徳川家宣(いえのぶ)。彼は温和で学問好きな君主として知られ、学問の師新井白石、側近の間部詮房(まなべあきふさ)を登用。積極的に政治の刷新を図りました。

家宣の人柄を表すこんなエピソードがあります。
綱吉は死に際して、
「生類憐みの令は子々孫々守ってゆくようにせよ」
と遺言しました。しかし生類憐みの令でたくさんの人が迷惑しているのは家宣も知っています。家宣は綱吉死後さっそくこの令を廃止し、庶民の喝采を得ました。このとき八千人以上の人が獄から解放されたそうです。
これは大胆なことでした。なぜなら、当時の学問・道徳の根源であった儒教ではなにより「孝」、親孝行を重んじています。遺言を守らないのは最大の不孝。
先代の遺言を守るか、民の幸福を図るか、まじめな家宣の答えは決まっていました。

「先代のご遺言ゆえ、自分ひとりは生涯この令を守ってゆこう。
しかし、生類憐みの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。余は天下万民のために、あえて遺命に背くこととする。
自分ひとりが守ることによって、先代にも申し訳が立とう」

叔父の綱吉に嫌われなかなか後継に指定してもらえず、48歳になってやっと将軍になった我慢強い苦労人でした。

ですがもともと体の弱かった家宣は将軍にあることわずか4年でこの世を去ります。跡継ぎの息子、鍋松は当時わずか4歳(数え年なので、満年齢では2,3歳)。
死の一か月ほど前、将来を憂えた家宣は新井白石を病床の枕元に呼び、相談します。

「天下のことは私すべきではない。跡継ぎが無くはないが、幼いものを立てて世を騒がしくした例も多い。
そこで余の跡は尾張の吉通(よしみち)殿に譲ってはどうか。ないしは鍋松に継がせておき、尾張殿を西の丸に入れて後見とし、政治を任せるか。
どちらがよいであろうか」

白石は即座に答えました。

「ご立派なご配慮ではございますが、どちらも必ずしも適切とは存じませぬ。
お跡継ぎが二、三に分れたときの派閥の争いが世を騒がせました例は、不幸にも過去に繰返されて参りました。上様(家宣)のお世継ぎに鍋松君がおありなのに尾張様の名があがれば、心無く二た手に動きだす者もできて参りましょう。
御三家をはじめ御一門の方々、譜代の御家来がかくお揃いのうえ、守り立てますれば、若君が御代を継がれまして何のご懸念がありましょうか」
「幼い者に万一のことがあれば」
「その為に神君(家康)は、御三家をお立てになりました」

その言葉に家宣も安心し、1712年死去。こうして鍋松が七代将軍となり、家継(いえつぐ)と名乗りました。

ここで家宣の後継にと言われた尾張吉通こそ、宗春の兄、四代尾張藩主徳川吉通その人です。彼が長生きしていたら確実に将軍家を継いだであろうことは多くの学者も認めています。

そして家継はこれも在位4年、1716年、わずか8歳(満年齢では6,7歳)で世を去り、八代将軍の座を巡って尾張と紀伊の争いが始まるのです。

ではその吉通はどんな人物だったのでしょうか。そしてなぜ将軍になれなかったのでしょうか。


次回「4代 徳川吉通 なぞの殿様」に続きます。


 
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by fouche1792 | 2005-09-28 13:56 | 尾張徳川十七代
東海雑記にアップした記事を加筆訂正したものです>

痛快無比な宗春を読むなら、コレ!

宗春を主人公にした小説は何点か出ています。
特に1995年、NHK大河ドラマで「吉宗」が放映された頃は名古屋でも宗春ブームが起こり、名古屋祭りの郷土英傑行列(市民が扮した信長・秀吉・家康のパレード)にも宗春がゲスト出演。
宗春本も増えました。

それ以前は実は忘れられた存在として、歴史書に出てくるか、時代劇、時代小説の悪役としてちらっと出てくる程度でした。
その頃早くも宗春を真正面から取り上げ、主役とし、単なる吉宗のライバルでなく、それなりのポリシーを持った人物として描いたのが、海音寺潮五郎さん『吉宗と宗春』です。
おそらく初めてまっとうに宗春を描いた小説ではないでしょうか。

題名も私が記憶するだけで4回変わっています。

『尾張藩勤皇伝流』→『風流大名』→『宗春行状記』→『吉宗と宗春』。

その時代、時代で記憶に残りやすい題名にしようという工夫がうかがわれます。海音寺さん死後の改題もあったでしょうが。

海音寺さんは豪快な男、ひたむきな男を描くのが特にうまく、平将門、上杉謙信、西郷隆盛などの傑作小説をかいていらっしゃいます。昔は司馬さんと人気を二分していましたね。
そんな海音寺さんの描く宗春はやはり豪放なそして優しい男。一緒にいるとこちらまで楽しくなってしまうような、名前のとおり春を感じさせる風のような男です。
対して吉宗、大岡忠相などは自分にも他人にも厳しい為政者として描かれています。
そう、「暴れん坊将軍」のイメージと全く逆になっていますね。

もちろん、これは歴史小説であり、作家のフィクションです。
作中宗春は吉宗暗殺を企む旧家臣をさりげなく援助したり、大規模な巻狩りを企画して幕府に叛乱を起こそうとすることが暗に書かれております。史実と作家の想像をたくみに交えた、読んでいて楽しいフィクションです。
実際の宗春は以前書きましたように、理想が先走り、政治家としては吉宗にはかなわない男でしたが、この小説では吉宗を上回る男として描かれています。
おそらくこの本を読んだ殆どの人は宗春のファンになることでしょう。

スケールの大きな、かっこいい宗春を感じてみたい方にお勧めです。
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by fouche1792 | 2005-09-27 10:53 | 尾張徳川十七代
東海雑記にアップした記事を加筆訂正したものです>

隠居後、宗春は25年生きました。
それは失意の年月であり、幕府の厳しい制約を受けた年月でもありました。
1739年、江戸より木曽路を通って名古屋に到着。名護屋城三の丸内の屋敷に幽閉されます。名古屋への道中は誠に寂しいもので、道筋への近隣の男女の送迎も禁止されておりました。
そして幽閉中は親しんだ近習とも離れ、屋敷門も閉ざされ、父母の墓に詣でることすら禁止されました。

1751年、将軍吉宗死去。かつてのライバルの死を宗春がどのような気持ちで聞いたかは誰もわかりません。

1761年には父母の墓参りが許され、閉ざされたままの屋敷門が開放。隠居後初めて家臣と顔を合わせることもできました。
そんな喜びもつかの間。
1764年10月8日、宗春は69歳の波乱の生涯を閉じました。
時はすでに吉宗の孫10代将軍家治の治世。尾張家でも宗春の後を襲った8代宗勝はすでになく、その子、9代宗睦(むねちか)の時代でした。

人々にとって宗春の輝いた治世も夢のかなた。元藩主の訃報を聞いてあの時代を思い起こす人は、もはやまれでした。

しかし、幕府は依然宗春を許してはいなかったのです。
その証拠として、宗春の墓には罪人であるかのように、金網がかけられていたのです。
死してなお安息のない宗春。
死後75年たった1845年、ようやく金網がはずされ、歴代藩主と同じ待遇を得ることになるのですが、
これは当時反幕府感情を募らせていた尾張藩士民を宥めるためだったそうです。
最後の最後まで幕府に振り回された宗春でした。


宗春の業績はまだ分かっていないことがたくさんあります。
これは幕府と幕府に迎合した藩執政がその記録を消してしまったためだと言われています。
こうして人々の記憶から宗春は消えてゆきました。

時は下って昭和。
もはや宗春は歴史書にすこし記載されているか、時代小説で吉宗の失脚を企む悪役、(または善役)として描かれているかに過ぎなくなりました。

1980年代の初め、NHK名古屋で『あなたは宗春を知っていますか』という番組が放映されたことがあります。名古屋出身の俳優、森本レオさんを案内役として、宗春の業績を紹介した番組でした。
冒頭、町行く人々にこんな問いかけをしていました。
「あなたは宗春を知っていますか?」
知っている、と答えた人はなんとたったの1名。歴史通のおじいさんだけでした。

そして1995年。
大河ドラマ『吉宗』放映。このとき全国の人は宗春の存在を知ることとなりました。地元、名古屋の人々も。宗治は再び甦りました。
そして名古屋の人々に「中京の繁栄を築いた恩人」として語り継がれています。


高成長だった元禄の世を経て、低成長になった享保、元文期。しかしひとり名古屋だけが宗春の下で繁栄しました。
それまで質実剛健を旨とする尾張藩の治世下で蓄えられていた「豊かさ」が見事に開花したのです。もともと生産力の高い地方だっただけに、潜在的な活力は大変なものでした。
そんな時代に宗春のような君主を迎えたのはまさに天の采配と言うべきでしょうか。

しかし、その豊かさが宗春の政治家としての成長を妨げたことも事実です。
吉宗や後代の上杉鷹山が破綻した財政を引き継ぎ、苦労してゆく中で政治家として成長していったのに比べ、己の理想をすぐに実現できた宗春は、幸福だったのか、不幸だったのか。


愛・地球博でにぎわう町並みを眺めながら、大らかで優しい殿様のことを考えています。
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by fouche1792 | 2005-09-24 13:24 | 尾張徳川十七代