江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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カテゴリ:尾張徳川十七代( 47 )

◆図はそれぞれクリックしていただくと、拡大され見やすくなります◆

最初にお断りを

私はよく家系図を掲げております。眺めるのも作成するのも好きです。
だからといって、私は氏や血統を最上のものとしているわけではありません。
いわゆる権威主義者ではありません。
人間皆平等に、万系一世ホモ・サピエンスの子孫。先祖が偉いからといってその人の価値はきまりませぬ。

近代以前においては血統は重要視されておりました。
江戸中期以降ともなれば、大名家においては特に変人でない限り、血がつながっていればよい、藩主が存在しておればよい、という状況でした。

一部の武家や商家では事情が異なります。
当主がぼんくらであれば家(店)がつぶれるのですから。
なので特に商家では婿取りが盛んだったそうです。婿であれば優秀な人材が選べますものね。

尾張徳川家において藩祖義直の血統が途絶えたことはかなり深刻な事態でした。
しかも跡を継いだのが紀伊系、吉宗の血筋のものたち。

現代皇室の継承が問題になっていますが、江戸後半の尾張家のケースは一つの参考になると思います。
簡単に言えば尾張の士民はがっかりしました。
養子に対する目も冷ややか。その上、彼ら養子の時代は封建社会の矛盾がどうしようもならない所まできており、藩財政はかなり苦しいものでした。
かんじんの養子たちは、というと、これがいずれもぱっとしません。詳しくは今後書いてゆきますが、居ても居なくても同じ人物が多かったのです。
尾張の士民はますますがっかりしました。

当の養子たちにとっては理不尽な話かもしれません。好きでその家に生まれたわけではなく、好きで尾張家に養子に来たわけでもないのですから。

そう遠くない未来、皇室の直系男子は途絶えます。
女系継承になるにせよ、傍系継承になるにせよ、シビアな目で見てしまう人が出てくるでしょう。
しかし、その方とて好きでその家に生まれてきたわけでもなく、好きで継承するわけでもないでしょう。現代は江戸時代ではないのですから、あまりシビアな目で見たくはないものです。


さて、義直の血統は尾張藩では九代宗睦(むねちか)、支藩の高須藩では七代の勝当(かつまさ)で途絶えました。
では本当に義直の血統は永遠に失われてしまったのでしょうか。

二代藩主光友(みつとも)には沢山の子女がいました。
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男子3人に分家を立てさせたことは以前に申しました。
彼らの家系は高須藩を含め、いずれも血統が途絶えています。
しかし、娘の貴姫が広島藩主浅野綱長に嫁ぎ子をもうけていますので、ここに義直の血統が続いているわけです。

三代藩主綱誠(つなのぶ)は歴代最多の38人の子どもがいましたが、育ったのは6名だけでした。
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彼らの中で、4代藩主吉通(よしみち)の娘、千姫が摂家九条家に嫁ぎ、子孫を残しています。

八代藩主宗勝も子沢山な人でした。
以前にもお話しましたが、彼の子女は高級家臣や大名家の養子になったり、嫁になったりしました。
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やはり九条家に嫁いだ恭姫と、付家老竹腰家の養子になった勝起が子孫を今に残しています。


養子先、嫁ぎ先を見ると結構残っているものですね。
彼らが尾張藩を継承できなかったのは、何より将軍家に遠慮してのことでした。
紀伊系の養子とはいえ、同じ徳川という氏(うじ)、そして幕府の意向があったのです。

血統と継承は微妙に次元の異なる問題です。
血統が続いているのであれば、男系でも女系でも条件は等しい。しかし、一旦他家へ出て行ったものは、氏がことなるのですから、出戻りというわけにはなかなか行かなかったのです。

吉良義央(よしなか:上野介)の息子が上杉綱憲となって上杉家を継ぐことができたのは母親が上杉の出ということと、何より上杉家に男子がいなかったからでした。
秋月藩から養子に来た上杉治憲(はるのり:鷹山)も同じです。

そして江戸後期になると、十一代将軍家斉の55人も子どもの受け入れ先に、血統のつながりなどお構いなしに、各大名家に押し付け養子がなされたのです。
その一番の被害にあったのが尾張家でした。
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by fouche1792 | 2005-10-25 23:25 | 尾張徳川十七代

番外 血統の断絶とは

昨日(10月21日)朝日新聞一面に皇室典範改正についての記事が載ってました。
小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が、皇位継承順位について、男女を問わない「第1子優先」とし、女性が天皇になることや母方だけに天皇の血筋を引く女系天皇を容認するとの方針を固めた。こうした方針をとれば、皇位継承の資格者が増え、順位の変動が少ないことを考慮した。25日から意見集約に入り、11月末に報告書をまとめ、首相に答申する。政府は世論の動向を見極めながら、皇室典範の改正を目指す。
(中略)
 第1子優先案が採用されると、現状にあてはめれば、皇太子さまの長女の敬宮愛子さまが皇位継承者になる。しかし、6日に学者グループが、敗戦直後に皇籍離脱した旧皇族の復帰を求める「緊急声明」を出すなど、世論には「男系男子」の維持を求める声もある
 有識者会議は25日から始まる意見集約で、こうした世論の動向も慎重に見極める方針だ。委員の間では「男子が生まれれば世論も変わるかもしれない」との議論もある
(以下略)

                                   10月21日 朝日新聞 傍線引用者

これに反対する学者、文化人が、「皇室典範を考える会」(代表=渡部昇一・上智大名誉教授)を結成し、慎重審議を求める声明を発表しました。
「(男系継承という)有史以来の皇室の伝統を継承し守っていく姿勢こそが大前提」

*記事の全文はこちらこちら


「男系継承」。確かに古代~近世に女性天皇がいましたが、いずれも「皇族」、つまり男親を通じて天皇につながる血筋を持っていました。そして彼女らは(独身者もいましたが)子をなし、皇位を継がしめていることもありますが、いずれの場合も皇族と結婚しているため、子どもはやはり父方でも天皇につながっています。
イギリスは男系継承にこだわっていません。ノルマンコンケスト以来いくつかの王朝が交代していますが、父方か母方のどちらかをつうじて前王朝とつながっています。
現在ヨーロッパにはいくつかの君主国がありますが、女系継承をみとめています。
しかし中世では女系継承を認めていない家も多く存在しました。例えばフランス。フランスには女王はいません。血統が絶えたときも男系の継承でつづいています。
「サリカ法」という記事を書いたので、参照してください。

男系継承にこだわる心理は分かるような気がします。
戦後、民主化された現代では「家」の概念はかなり薄れていますが、それでもわれわれは家族を形成し、世代の異なる血縁集団の中である程度体験を共有しています。
先人が死んだ後、彼らとの記憶を守り、彼らが完全に地上から消えてゆくのを防いでいます。
有形無形の財産を受け継いでゆくのです。
例えば位牌を守る、というのがそれですね。そして多くの場合、女性は他家に入りますから、残った男子がそれを受け継いでいます。
もちろん、受け継ぐのは男性でも女性でもかまわないのです。

血統というのは現代ではさほど意識されていませんが、近代以前にはかなり重要視されてました。特別な血統にはパワーが受け継がれていると考えられていたようです。

よく誤解されていますが、源頼朝は源氏の嫡流ではありません。源氏の中でもランクの低い清和源氏の傍流、河内源氏の流れです。
それでも頼朝が生きている時代から彼の血統は特別視されていました。八幡太郎義家の血を受け継ぎ、さらに保元の乱で活躍した義朝の血を受け継いでいるのですから。そして彼自身が成功を収めたことで、ますます彼の血統は特別視されるようになりました。

ところで血統という観点でみれば、男系も女系も、その条件を等しくしています。
女子も男子も等しく親の、そして先祖の血を受け継いでいるのですから。

周知のように源氏将軍は三代で滅びます。
最初は皇族将軍を希望していた北条氏でしたが、それが不可能となるや摂家将軍を迎えました。
四代将軍に迎えられたのは摂家の九条頼経(よりつね)
彼は女系で義朝に連なっています。
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(クリックしていただくと見やすくなります)

彼に白羽の矢が立ったのは、血統だけでなく、親幕府の九条家出身であることも大きかったでしょうが。
さらに頼経は二代将軍頼家の遺児、竹御所鞠子と結婚しています。これは完全な政略結婚で、当時頼経13歳、鞠子は28歳(!)。15歳年上の夫人でした。
この結婚は何を意味するのでしょうか。
なぜ北条氏は鞠子を28歳まで独身でいさせたのでしょうか。

もちろんこの結婚には、頼朝の血統を継がしめるという意味があります。
さらに鞠子は北条政子亡き後、鎌倉幕府の精神的主柱であったようなのです。各種のセレモニーなどに出席していて、その席順からわかるそうです。
つまり実朝亡き後源家を受け継いだのはこの鞠子であったようなのです。
頼経は女系で血統的に源家に連なっているとはいえ、少し遠い。ですからさらに鞠子を通じて源家につながりを持たせたのでしょう。そして鞠子から源家を、鎌倉家を受け継がせたのでしょう。
この時点で皇族将軍が実現していたとしても、その彼は鞠子と結婚していたでしょう。

皇室の伝統はどうか知りませぬが、少なくとも中世武家においては女系も重要視されていたのです。

鞠子は32歳で懐妊しましたが、母子ともに死亡。
こうして神聖なる頼朝の血は鎌倉幕府から失われたのでした。


尾張家では藩祖義直の血統が九代宗睦で絶えてしまいます。
では、あれほど沢山いた宗勝(八代)、吉通(四代)、光友(二代)たちの子女はどうなったのでしょうか。彼らの子孫はどこに行ったのでしょうか。


次回も番外編。藩祖義直の血統を求めてみます。
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by fouche1792 | 2005-10-22 02:42 | 尾張徳川十七代
このコーナー「尾張徳川十七代」は。。。

名古屋人は普段は節約しているのに、いざという時は派手! 
そんな気質の原因を
江戸時代の名古屋の殿様にからめて考察していくコーナーです。



現在皇室のあり方が問われています。
はたして女帝は誕生するのでしょうか?
戦後社会ではなかなか実感の湧かない血統の断絶。
血統の断絶はどのような事態をもたらすのでしょうか?
今から200年ほど前、尾張徳川家でも同じような問題がありました。

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↑クリックしていただくと図が拡大します。


先の記事で申しましたように、宗睦(むねちか)は藩政改革を推し進め、「名君」とみなされました。
しかし、家庭生活ではきわめて不幸な人でした。

40年に渡る長き在位。英国のヴィクトリア女王の例をみればお分かりのように、長期の在位は後継者の高齢化をまねきます。
その上宗睦は後継者に次々と先立たれ、寂しい晩年を送りました。

<以下系図参照;年齢は全て数え年>

系図を見てお分かりのように、宗睦には2人の男子と一族から迎えた養子が数人いました。
「大名の名前について」 で申しましたように、当主と嫡男は将軍の名前から一字もらいます。これを見ると3人の男子が10代将軍家治より一字もらっていることが分かります。彼ら3名はどうして宗睦の後を継げなかったのでしょうか。


1774年に長男、治休(はるよし)が21歳で死去。この長男は優しい人柄で、領民にも慕われていました。その死を知り、藩士も領民も嘆いたといいます。


1777年、次男の治興(はるおき)死去。兄と同じ21歳でした。


実子に先立たれた宗睦は、甥で5代高須藩主の松平義柄(よしえ)を養子に迎えます。

治行(はるゆき)と改名し、七代紀伊藩主、徳川宗将(むねまさ)の娘、従姫と結婚した彼も、宗睦の後を継ぐことはできませんでした。


1793年、徳川治行死去。34歳。



治行と従姫の間に生まれた五郎太も父の後を追うかのように亡くなります。
ちなみに五郎太というのは藩祖義直の幼名であり、尾張家嫡統の男子が名乗る幼名です。


1794年、五郎太死去。14歳。


宗睦は次に甥の勇丸(いさまる)を養子に迎えますが、2年ともちませんでした。


1796年、勇丸死去。3歳。


こうして年代を並べてみると、何か怖くなってきます。

特に治行死去の1793年から宗睦死去の1799年までは死人のオンパレードです。

空想豊かな作家さんなら、

「尾張家乗っ取りを企む暗殺か?」

と、1本の小説が書けるかもしれませんね。

こうして一族の中での後継者選びをあきらめた宗睦は、11代将軍家斉の息子を養子に迎えますが、これもほどなく死去。

最後に養子に迎えた一橋治国の息子、斉朝(なりとも)が10代尾張藩主となります。

ここに藩祖義直の血統は断絶。紀伊家の血統の藩主、いわゆる「押し付け養子」がその後4代50年続くのです。




冒頭に掲げてあります、名古屋人の気質。いざと言うときは派手でも普段は地味、というより、お上に従順。でも反発心を隠し持っている、とうのは宗春時代と、この後の50年間の「押し付け養子」時代に培われたものだという説もあります。
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by fouche1792 | 2005-10-20 02:28 | 尾張徳川十七代
宝暦治水工事で恩恵をこうむったのは沿岸の農民たちばかりではありません。
尾張徳川家もまたその恩恵にあずかりました。
「尾張」徳川家は、尾張国のみならず美濃、信濃にもその領地がありました。特に木曽の山林は石高に計上はされていませんが、尾張家にとって大事な財源でした。

9代藩主宗睦(むねちか)は、この治水工事の恩恵もあり、傾いた財政を修復するための尾張藩の「天明の改革」に一応成功しました。
彼の治世は四十年の長きにわたり、人材登用、人材育成、法令の整備などさまざまな改革を行いました。
しかし、その彼をもってしても封建制の矛盾は克服できず、晩年に行った藩札の発行はその後長く尾張藩財政を苦しめることとなります。


宗睦は文教政策にも心を砕き、藩校「明倫堂」を創設しました。
その初代督学(学長のようなもの?)に、米沢藩の名君、上杉鷹山(ようざん)の師である細井平洲(へいしゅう)を指名。その平洲の意見により、一般の人にも聴講が許され、幕末まで大きな影響を与えました。

もともと平洲は尾張国の農家出身だったのですが、はやくから京都、江戸などで活躍。上杉鷹山の師として、その藩政改革を補佐し、米沢だけでなく多くの大名、庶民の支持を得ていました。

幕末、14代藩主となった徳川慶勝(よしかつ)は宗睦を理想とし、藩政改革を進めました。松平定信、水野忠邦が吉宗の改革を理想としたように。宗睦は尾張家の「吉宗」といえましょう。


藩校明倫堂はその後、明倫中学校→明和高校として、現在も続いています。
明和高校は愛知県尾張学区(愛知には尾張、三河の2学区がある)有数の進学校としてあまたの人材を輩出しています。
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by fouche1792 | 2005-10-19 01:31 | 尾張徳川十七代
1754年(宝暦4年)1月、鹿児島を出立した平田靱負(ひらたゆきえ)は大坂に立ち寄り、金策に奔走します。しかしすでに60万両(約600億~1200億円)を上回る借金がある薩摩藩に対し、はいそうですか、と貸してくれる商人が居るわけがありません。

「何も我々が浪費するのではない。
水害に苦しむ人々を救うために必要な金なのだ」

必死の説得にも商人たちは首を縦に振りません。

現代のように税金をあまねく徴収して、必要性の不確かな工事までやってしまうどこかのお役所には想像もつかない苦難でしょうね。

担保を要求する商人に対し、平田は独断で薩摩藩の専売品、砂糖を担保として差し出すことを約束し、なんとか7万両(約80億~140億円)を借りることに成功したのでした。
ちなみに当時砂糖はめったなことでは庶民の口に入らない高級品で、白砂糖などは薬として扱われていたほど、希少品でした。

1754年2月、薩摩藩士750名は美濃(岐阜県南部)に到着。工事に取り掛かります。
しかし平田の言葉通り工事は難航を極めました。
特に幕府の嫌がらせは大変なもので、故郷から遠く離れた見知らぬ土地で、慣れない重労働にあえぐ藩士たちに対し、地元民に

「一汁一菜のほか提供するな」

「薩摩藩士たちが求める品々は、必ず現金を受け取ってからわたすように」

など厳しいお達しを出しました。
時には工事の妨害まであったといいます。
薩摩藩など国内の諸大名をを仮想敵とし、ここぞとばかりに痛めつける。この幕府の
狭い了見にはあきれてものが言えません。
軍事政権であったはずの幕府が19世紀の欧米列強の外圧に対抗できなかったのも当然でしょう。

悪天候と疫病、それに幕府の嫌がらせに、激高し自害する藩士も出ました。
それら悪条件にめげず、1755年5月、1年2ヶ月かけて工事は完成します。その出来栄えは見事なもので、あれほど妨害をした役人たちも言葉が出なかったといいます。

工事に参加した人数は薩摩藩から947人。雇った人数を加えると2000人以上。工事範囲は180ケ村に及びました。費用は全体で40万両(約450億~800億円)以上もかかったそうです。

薩摩藩士の犠牲は

割腹 52名 病死 33名

そして5月25日早朝、総奉行の平田靱負も責任を取って自刃。

住みなれし 里も今更 名残にて
      立ちぞわづらふ  美濃の大牧
享年55歳。


藩主島津重年はもともとからだが弱かったところに、遠い地で苦労する藩士を思いやるあまりり病にかかり、平田の死も病床で聞きました。そして程なく死去。

こうして多くの犠牲を出して宝暦治水工事は終わりました。

尾張、美濃、伊勢。濃尾三川沿岸の人々は薩摩藩士たちに深く感謝し、治水神社を建て、「薩摩義士」たちを祭りました。

その薩摩義士たちが故郷を思って植えた松が今でも千本松原として残っています。



この薩摩義士たちの行いと、その歴史を子供たちに伝える学校教育を思うとき、歴史教育の素晴らしさを感じずにはおれません。
私も小学校4年生で平田靱負と千本松原のことを学びました。

「ゆきえって女みたいな名前だがね」

なんて軽口をたたきながらも、自らの命までかけて「同じ日本の民だから」とわれわれの地域を助けてくれた行為に畏敬の念を抱きました。

「同じ日本の民だから」  
平田はそういいましたが、あの時代ではむしろ稀有な考え方でしょう。尾張は尾張、薩摩は薩摩。それぞれの国(江戸時代までの、日本に60以上あった国。今の県に相当)のことは考えられても、国の枠を超えて意識できるなんて、現代でいえば国際的感覚といってもいいでしょう。

私はここにもう一つ、尾張と薩摩、不幸な歴史を持った両者の歴史共有のあり方を見て、今なお多くの人の心を痛めている日中朝韓の歴史共有の可能性を感じるのです。

自虐史観でもなく、皇国史観でもなく、お互いに尊敬と感謝の念を持った、歴史共有のあり方を。
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by fouche1792 | 2005-10-17 15:50 | 尾張徳川十七代
1753年(宝暦3年)12月25日。江戸幕府は木曽三川治水お手伝い普請を薩摩藩島津家に命じました。


木曽三川――木曽川長良川揖斐川、濃尾平野を流れる三つの大河は伊勢湾上流で、200を越える支流が網の目のように絡み合い、流れていたそうです。ひとたび大雨になるやその被害は甚大でした。
その治水工事を、木曽三川から1200km以上も離れた、縁もゆかりもない薩摩藩に命じたのです。
いうまでもなくこれは幕府の嫌がらせで、薩摩藩の弱体化をねらったものでした。
参勤交代で痛めつけられ、数度の縁組で散財させられてなおこのような仕打ちに会わねばならぬとは。
このとき既に薩摩には60万両(約600~1200億円!)を超える借金がありました。治水工事をすればさらに借金が増えることは目に見えています。しかも工事をするのは、まったく縁もゆかりもない土地なのです。まさしく薩摩藩存亡の危機でした。


勇猛で鳴らした薩摩隼人たちは憤慨し、

「幕府と一戦を交える覚悟で辞退すべし」

「いや、幕命に逆らい、お家をつぶすことは不忠」

と激論を戦わせます。武士の意地を貫き通すか、お家大事で忍耐するか。議論は堂々巡りするばかり。
その場をまとめたのは家老平田靱負(ひらたゆきえ)の言葉でした。


「幕命にそむけば幕府との戦、命に従えば大自然との戦。
どちらにせよ命がけの戦になるだろう。どうせ命をかけるなら、断ってお家を滅ぼすよりは、従ってお家存続を図ろう。
遠く離れているとはいえ、同じ日本国ではないか。水害で苦しんでいる美濃(岐阜県)の人々を救い、薩摩魂を見せつけてやろうではないか

藩論は統一され、平田が工事責任者として美濃へ出発することになりました。
時に平田靱負50歳。

宝暦治水工事は彼の言葉通り、命がけの戦いとなるのでした。
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by fouche1792 | 2005-10-15 21:10 | 尾張徳川十七代
宝暦治水の話にゆく前に、宗勝の子供たちの養子先、嫁ぎ先を系図にまとめました。
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公家の九条家浅野上杉といった大身の外様大名と縁付きになったことが分かります。

ただ、島津家とだけは縁がなかったようで、島津宗信の許婚、房姫は婚姻なる前に17歳で亡くなってしまいました。

また、浅野重晟(しげあきら)室となった邦姫も、はじめは島津氏に嫁ぐ予定でしたが、今度は宗信が婚姻前に亡くなってこれもボツ。

これで島津と徳川の縁がうすくなり、宝暦治水の遠因となるのです。


江戸幕府とは世界史上類を見ない奇妙な政権でした。

内政と外交、貿易を一手に引き受けながら、その長は今で言う国家元首ではありません。征夷大将軍とは天皇より任命される役職でしたから、実質日本国王となっても、形式上は朝廷の臣下でした。

また諸藩の内政には不干渉でしたが、全国レベルの行政を行いながら、その収入は自分の領地(天領)より上がる年貢を主とし、他の大名やその領民から税をとる権限はありませんでした。(吉宗時代の一時期、「上げ米」と称して1万石あたり100石を上納させましたが、これは一時の例外で、期間も8年と短いものでした)

自領のみの収入で全国の行政サービス、インフラ整備をしなければならない。

ただでさえ赤字の幕府財政、まともに対処していたらペリー来航を待たずして幕府は崩壊していたでしょう。

それゆえ幕府はしばしば「お手伝い普請」として、諸大名にそれらを実施させました。諸大名にしたらたまったものではありません。こちらもただでさえ苦しい財政事情なのに、縁もゆかりもない土地の普請や治水工事をさせられるのですから。

それゆえ諸大名は競って幕府閣僚に取り入り、情報網を張り巡らし、なんとか「お手伝い普請」を免れるよう努力をしたのです。諸藩江戸屋敷、江戸家老の大きな役割は実にこの一事でした。


薩摩藩島津家は常に幕府の仮想敵国として、厳しい警戒の目を向けられていました。

一方で何とかして縁付きになろうと、政略結婚も盛んでした。


5代将軍綱吉の養女竹姫が改めて吉宗の養女となり嫁いだのは5代藩主、島津継豊。しかしこれは半ば強引に押し付けられたといってよく、継豊には既に嫡男宗信がおりましたし、竹姫も当時26歳、この時代ではすでに薹が立っておりました。さらに彼女には吉宗が想いを寄せていたらしいと、なかなかいわく付の女性でありました。

そのため、島津側は竹姫に男子が生まれても後継にはしない、という条件をつけました。

そんなこんなでやっと実現した竹姫の婚姻ですが、まがりなりにも将軍家の姫君を迎えるのですから、島津側の出費は大変なものでした。


そんないきさつがあったものですから、尾張家との婚姻が成り立たなかったことに胸をなでおろす家臣もいたとか。しかしこれが後々大きなツケとなって島津家に襲い掛かるのです。
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by fouche1792 | 2005-10-14 11:36 | 尾張徳川十七代
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宗春の跡を継いだのは分家の松平義淳(よしあつ)。家督相続後、将軍吉宗から一字をもらい、徳川宗勝と名乗りました。

彼は宗春や吉宗に劣らぬ幸運な巡りあわせで61万9500石の大名となったのです。

はじめは尾張家分家、川田久保松平家に生まれ、父の死後、跡を継ぎます。このときの名は松平友淳(ともあつ)。友淳の友は6代藩主継友からもらいました。
1732年、28歳で同じ尾張家分家の高須松平家を継ぎ、義淳と改名します。この高須松平家は尾張家の分家の中では唯一幕末まで続いた家系で、幕末には天下に名をとどろかせることになるのですがそれはまた後のお話。
その後1739年、以前に申しましたように宗春の隠居・謹慎の跡を受け、35歳で尾張徳川家の当主となりました。

身代が大きくなってゆくたびに改名する様はまるで豊臣秀吉のようですね。

・秀吉
木下藤吉郎秀吉→羽柴筑前守秀吉→豊臣秀吉

・吉宗
松平頼方(部屋住み→越前葛野3万石)→徳川吉宗(紀伊55万石→8代将軍)

・宗春
松平通春(部屋住み→奥州柳川3万石)→徳川宗春(尾張61万9500石)

・宗勝
松平友相→松平友淳(川田久保家1万石)→松平義淳(美濃高須3万石)→徳川宗勝(尾張61万9500石)


藩主就任後は宗春の赤字財政、幕府との軋轢という遺産を受け、よく頑張りました。幕府も宗春後の尾張家との融和を積極的に図りました。

宗勝には15男10女、あわせて25人の子女が生まれ、そのうち10男6女が無事に育ちました。男子は各大名家や上級家臣の養子に、また女子は上杉や島津、水戸分家の松平といった大名家に嫁ぎました。これによって宗勝の発言力も増しました。

そして、名古屋(おそらく鹿児島も)の小学生なら誰でも習ったことのある木曽三川の「宝暦治水」が行われたのです。
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by fouche1792 | 2005-10-13 11:51 | 尾張徳川十七代

四谷松平家(高須藩)

尾張藩9代藩主徳川宗勝(むねかつ)四谷松平家の出身です。
ここで四谷松平家のご紹介をしましょう。

尾張藩2代藩主光友(みつとも)には何名かの男子がいました。彼は将来のことを考えて三つの分家を作りました。それらの家は江戸にあった屋敷の所在地をとって、大久保松平家、四谷松平家、川田久保松平家と呼ばれるようになりました(御三家の当主と嫡子以外は皆松平の姓を名乗りました)。ちなみに御三家の分家を御連枝と呼びます。

四谷松平家
3代藩主綱誠(つななり)の同母弟、すなわち将軍家光の長女千代姫の息子、義行の家系。後に美濃(岐阜県南部)高須にて3万石の大名となったので、一般には高須松平家と呼ばれています。分家の中で唯一幕末まで続きました。

大久保松平家
光友の長男でありながら母が側室のため、三男とされた義昌(よしまさ)の家系。奥州柳川(現福島県)で三万石を領しました。この家系は三代で断絶。その後を松平通春(みちはる)が継ぎましたが、通春が尾張家を継ぎ宗春となると跡継ぎはなく完全に断絶しました。

川田久保松平家
光友の11男、友著(ともあき)の家系で、その子友淳(ともあつ)が高須松平家を継いだために二代で絶家となりました。


↓画像はクリックしていただくと、拡大され見やすくなります。
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初代 義行(よしゆき) 1656-1715 (在位1700-1708 以下同)
綱誠死後、幼少の吉通(よしみち)をよく補佐した。

二代 義孝(よしたか) 1694-1732 (1708-1732)
義行には武雅(たけまさ)という子がいたが、六代将軍家宣の弟、松平清武の養子となったので、兄綱誠の子義孝が高須藩二代藩主となった。

三代 義淳(よしあつ)  1705-1761 (1732-1739)
尾張家の分家、川田久保松平友著(ともあき)の子。
1739年、徳川宗春の後継となり、尾張家八代徳川宗勝となる。

四代 義敏(よしとし)  1734-1771(1739-1771)

五代 義柄(よしえ)  1760-1793 (1771-1777)
1777年に尾張家九代宗睦(むねちか)の養子となり、徳川治行と改名。
しかし襲封前に死去。

六代 義裕(よしひろ) 1762-1795(1777-1795)

七代 勝当(かつまさ) 1737-1801(1795-1801)
宗勝の子。
嗣子無く、一橋家より養子義居を迎え、ここに義直(尾張藩祖)の血統が断絶した。

八代 義居(よしすえ) 1785-1804(1801-1804)
一橋家徳川治済(はるずみ)の子。すなわち11代将軍家斉の弟。

九代 義和(よしかず) 1776-1832(1804-1832)
水戸徳川治保の子。すなわち烈公斉昭の兄弟。

十代 義建(よしたつ) 1799-1862(1832-1850)
義建は教育熱心で、その子供たちは早世した者を除き皆大名となった。
 徳川慶勝
 二男 第十四代尾張藩主となる
 松平武成
 三男 石見濱田藩松平右近将監武楊の養子となる。 
 松平義比(徳川茂徳)
 五男 第十一代高須藩主となる。その後第十五代尾張藩主に。
 松平容保
 六男 会津藩主松平肥後守容敬の養子となる。後に京都守護職。
 松平定敬
 七男 桑名藩主、松平越中守定猷の養子となる。後に京都所司代。
 松平義勇
 九男 第十三代高須藩主となる
特に慶勝、茂徳、容保、定敬の4人は幕末の政局で活躍をしたので「高須四兄弟」と呼ばれている。

十二代 義比(よしちか) 1831-1884(1850-1858)
 1858年、兄慶勝が井伊直弼より隠居謹慎を命ぜられ、その後を受けて十五代尾張藩主となる。
 1866年、将軍慶喜の後を受け、一橋家を相続。茂栄(もちひで)と改名。

十二代 義端(よしまさ) 1858-1860(1858-1860)

十三代 義勇(よしたけ) 1859-1891(1860-1869)

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by fouche1792 | 2005-10-12 12:06 | 尾張徳川十七代

番外 松平通温

徳川宗春には松平通温(みちまさ)という同年齢、5ヶ月年上の異母兄がいました。

ちなみに御三家の当主、嫡男は徳川を名乗りますが、庶子はみな松平を姓とします。宗春も家督を継ぐまでは松平通春(みちはる)と名乗っていました。通春、通温の「通」は兄である4代藩主徳川吉通(よしみち)の「通」です。(詳しくは「大名の名前について」を参照してください)

この通温、「尾張家御系譜」によれば、宗春と同じく名古屋で生まれ、江戸下向、将軍へのお目見え、官位の任官などは常に宗春より1年先んじています。
同じ庶子とはいえ、長幼の順は歴然としていました。
二人の境遇が逆転するのは享保3年(1718)、吉宗が将軍になって3年目のことです。

「御系譜」には

「四月二十三日御病気に依りお登り(江戸から京都方面へ出立すること)、この年より尾州御住居。」

そしてその次に

「享保十五年(1730)五月十九日尾州に於いて御卒去。御年三十五」

とのみ記され、どんな病気だったのか、なぜ尾張に戻らねばならなかったのか、そしてなぜ10年以上も尾張にいたのか、何も語っておりません。

「御系譜」作者には主筋に連なる人ですから、書けなかったのでしょう。



通温は憤死したそうです。

将軍位を巡る争いで尾張家が紀伊家に敗れたとき、最も悲憤慷慨したのがこの通温でした。その憤りが体を壊し、ついに名古屋に蟄居になり、兄継友(つぐとも)が死去する半年ほど前にこの世を去りました。

宗春は剛毅な、そして同時に心の細やかな人物でしたが、兄弟にもなかなか剛毅な人物がいたようです。

後年この通温の憤死と継友の病死が混同され、

「尾張家の継友は将軍家を恨んで憤死した」

「いや、将軍家に毒殺されたのだ」

という憶測が生まれたのでした。



数々の不幸が宗春を檜舞台に押し上げました。
時は元禄の高成長再びをまだ夢見る人も多い享保の世。ライバルは徳川中興の英主、吉宗。
名古屋と江戸を舞台に輝かしいドラマが幕を開けようとしていました。
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by fouche1792 | 2005-10-10 04:10 | 尾張徳川十七代