江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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カテゴリ:尾張徳川十七代( 47 )

本日(7月20日)付け朝日新聞夕刊トップに「靖国参拝中止『私の心』/昭和天皇A級戦犯合祀に不快感」として以下の記事が載っておりました。

 昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されたことについて、「私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などと発言したメモが残されていることが分かった。当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記し、家族が保管していた。昭和天皇は靖国神社に戦後8回参拝。78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝していなかった。A級戦犯合祀後に昭和天皇が靖国参拝をしなかったことをめぐっては、合祀当時の側近が昭和天皇が不快感を抱いていた、と証言しており、今回のメモでその思いが裏付けられた格好だ。


記事全文はコチラ

これに対し韓国が速報を流したり、小泉首相や小沢一郎さんがコメントを発するなど、各方面に波紋が起こっています。

この問題に立ち入るのは当ブログの趣旨から外れますので、このはなはだセンセーショナルな見出しと記事、メモ内容が合致するかどうかはお読みになった方それぞれが判断なさって下さい。

asahi.comには出ていないのですが、続けて「中止の理由定説裏づけ」という小見出しで以下のように書かれておりました。

「靖国とは国を安らかにすることであるが……」
昭和天皇は、靖国神社のA級戦犯合祀について側近にこう語り、強い不快感を示していた。
数年置きに私的に参拝していた同神社や護国神社への参拝を合祀以降は行わないとの意思を示したことは、合祀当時に靖国神社側と折衝した故徳川義寛元侍従長や天皇の側近らが95年、朝日新聞記者に証言していた。(以下略 傍線引用者)


ここに出てくる徳川義寛(よしひろ)さんは尾張徳川家、明治以降は侯爵となるのですが、その尾張徳川侯爵家の分家筋の方です。

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明治維新当時尾張家の当主は16代義宜(よしのり)でしたが、わずか10歳(数え年)だったため、実験は父慶勝(よしかつ)が握っておりました。
その後1869年版籍奉還にあたり名古屋藩知事となりますが、1870年病弱のため引退。父慶勝が名古屋藩知事となります。そして1875年わずか18歳で死去。父慶勝が子のあとを継いで17代目当主となります。
ですが慶勝もすでに52歳。跡継ぎとして高松松平家(水戸家分家)から義礼(よしあきら)を養子に向かえます。こうして1880年義礼が18代目当主となり、1884年に華族令にともない侯爵となります。
この義礼さんは北海道の熊の木彫りのアイディアを出した人ですが、短命な人で、1908年に死去。
その直前に養子になり19代目を継いだのが幕末四賢侯の一人、松平春嶽の末子義親(よしちか)さん。彼は非常に行動的な人物で、マレーに虎狩に行ったり、戦中は軍政顧問、戦後は社会党顧問となったり、尾張家をはじめ華族の財政を立ち直らせたり、徳川美術館を作ったりなどしたとてもユニークな方です。
こうして尾張家は現在まで続いているのですが、慶勝は明治以後にも複数の子供を作っており、1878年に生まれた十一男の義恕(よしくみ)は分家して男爵となっています。
義恕さんは大正天皇の侍従を勤めていたのですが、その長男である義寛さんも昭和天皇の侍従を長く勤め、最後には侍従長となります。

義寛さんが大活躍したのが1945年8月14日。終戦前夜のこと。
彼らの働きがなかったら、8月15日に戦争は終わらなかったかもしれない、という危険なお話であります。
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by fouche1792 | 2006-07-20 22:45 | 尾張徳川十七代
NHKドラマ『純情きらり』。久しぶりの戦争をはさんだ時代物で舞台は岡崎
岡崎は三河(愛知県東部)の中央にある都市で、徳川家康のふるさとでもあります。

各地図はクリックすると拡大表示されます。
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↑愛知県(この地図は青木さんのサイト内「地図を描く!」よりダウンロード、加工したものです)

劇中生き生きとした三河弁が飛び交います。戸田恵子さん*の女将さん、パワフルですね! 私の母方の伯母はみんなあんな感じです(笑)。
名古屋弁と三河弁はちょっと似てます。というのは徳川家入封によって、名古屋には三河武士達が住みつき、三河弁と尾張弁が混ざってしまったのが名古屋弁のルーツだからです。だから岐阜弁、三重弁とはちょっと異なってるんですよ、名古屋弁。ちなみに同じように徳川家と三河武士が築いた江戸の町。東京弁にも三河弁は混じってるんじゃないかな(「~じゃん」とか)。

*調べてみたら春日井市出身とのこと。ビックリ! 小野道風チェリッシュのエッちゃん(松崎悦子さん)と並ぶ郷土の偉人であります。


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↑岡崎城天守(復興) 井上宗和著 朝日新聞社『定本 日本の城』(昭和41年刊)より

一国全てが徳川家の支配地だった尾張とは異なり、三河は中小規模の譜代大名によって分割統治されました。家康生誕の地であり、長男信康も城主だったこともあって、岡崎城主となることは名誉なこととされておりました。
岡崎藩は5万石の中藩でありますが、三河国内では最大の藩で、水野、本多、松平など徳川譜代の名門が城主を務め、寺社奉行や京都所司代、老中、若年寄など幕府の主要ポストに就く者も多数おりました。吉宗の時代に老中を務め、享保の改革前半期に活躍した水野忠之(ただゆき)も当時岡崎城主でした。

このように閣僚達の領土であった三河諸藩。閣僚達はどうしても中央に目が行きがちですが、城である以上、軍事目的もちゃんと持っておりました。
岡崎城は名古屋城への備えだったのです。
名古屋城が西国大名への備えであったように、岡崎城はその名古屋城を支える、あるいは監視する役目があったのです。江戸幕府の大名配置は相次ぐ除封転封でどんどん入り組んでゆきますが、隣接する藩同士を仲良くさせない、お互い監視させあう、というのが原則でありました。

時は義直在世中のこと。1645年に水野忠善(ただよし;監物)が岡崎城主に任ぜられます。
どちらかと言えば武より文のイメージが強い義直ですが、やはり彼も時代の子、そして家康の子。国にあるときは家臣に甲冑を着せ、訓練に励むのが日課であったそうです。その情報に眉をひそめたのが水野監物。加賀の前田、薩摩の島津といった外様大大名も幕府の鼻息を伺っている今、国内最大の実力を持つのは尾張と紀伊の両徳川家。そんな尾張家が戦の訓練をしているとは。
お忍びでお供の家臣を連れ名古屋城下にもぐり込み、様子を伺いますがその気配はありません。そこで監物、見物を装い、名古屋城の堀に縄をたらしてその深さを測ろうとしました。
ところがたまたま高楼にいた義直が目ざとくこれを見つけます。堀の深さは各藩の軍事機密。当然義直は激怒。

「あれを見よ。縄をたらして堀の深さを測る者がおるぞ! 監物に違いない。誰にせよ、我が居城の堀を調べるとは不届き千万! 構わぬから討ち取ってしまえ!」

一方監物も堀の深さを測る以上、誰かに見咎められるは必定。弁解の余地もないことは承知の上。初めからこのことを予想し、俊足の馬七頭を道筋のあちこちに配置。逃げる準備にぬかりはありませんでした。その甲斐あって監物は無事岡崎に戻り、追っ手の尾張家臣たちはすごすご引き下がるほかありませんでした。
義直は口惜しがりますが、もはやどうにもなりません。

後日江戸城内で義直は監物にからみます。

「岡崎は名古屋の押さえだ。私が大軍を催し、東下しようとしたら、お前はこれをよく阻止できるか」
「もちろんです。たとえ西国33カ国の軍をお率いになられても、二十日の間食い止めてみせます。そのうちには関東から加勢が来るでしょう」

臆せず言い放ちました。義直も頑固でしたが監物もそうとうなものですね。


『純情きらり』では戸田さんが八丁味噌の老舗の女将を演じておられますが、八丁味噌のルーツは家康たち三河武士が兵糧として持ち歩いた豆味噌だそうです。そういえば劇中でも宮﨑あおいさん演じるヒロインが海軍に八丁味噌を売り込みに行ってました。
腐りにくい三河の味噌と監物のような頑固で忠義な三河武士。徳川家が天下をとれた秘密はここらへんにもありそうですね。


『純情きらり』の公式ホームページはこちら

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by fouche1792 | 2006-07-17 20:01 | 尾張徳川十七代

2代 徳川光友 御連枝

**各図はクリックすると拡大表示されます**

忠臣蔵で有名な浅野内匠頭は播州赤穂浅野家の三代目。赤穂浅野家は広島浅野家の分家です。幕府に御三家があったように大身の外様大名などには万石以上の分家がありました。
中には特殊な例もありますが、大体が分知、自分の領土を分けあたえるのが普通でした。

御三家の分家大名は松平を名乗り、御連枝と呼ばれています。分家を立てることについて、尾張家初代義直のこんなエピソードが残っています。

かつて紀伊頼宣が、子の頼純(よりずみ)に紀伊55万石の内10万石を割いて分家させようと企画したことがありました。そこで胸中を安藤・水野の両付家老に打ち明けたところ、両名は口をきわめて反対。しかし頼宣の決意は固く、聞き入れる様子はありません。
「では、義直殿のご意見を伺おう」
と言うのみでした。
そこで紀伊家家臣は夜に入って尾張家の屋敷に伺候し、自分達の見解を義直に打ち明けるのでした。
「どうか主君頼宣の今回の企てをお止めいただきたく存じます。今のところは御父子の間柄ですから何の問題もございますまい。しかし徳川の御代がいついつまでも太平ならば、本家・分家ともに代々を重ねますから、その間柄は次第に疎遠になり、他人とあまり変わらなくなります。さすれば同国内に他領が混在するのと同じこと。もしも分家が断絶すればどうなりましょうか。領地は収公されるやもしれません」
義直はもっともなこととうなずき、頼宣に強く意見したため、頼宣も断念したそうです。

ところが義直死後の1670年には頼純は伊予(愛媛県)西条3万石の領主となっています。

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これはどうしたことでしょう?

実は御連枝諸家は分知ではなく、幕府から新たに領地を与えられる形で大名となっているのです(水戸の分家は当初分知であったが、後に他領に振り替えとなり、領土を本家に戻している)。そして何より本家が断絶する憂いを除くためでした。
吉宗が8代将軍となった後、頼純の子、頼致(よりよし)が紀伊家6代藩主となり、宗直(むねなお)となります。
紀伊家にはこの西条松平家のほかに松平鷹司家という御連枝があります。こちらは特殊な大名で、鷹司(たかつかさ)の名前のとおり、元はお公家さん。3代将軍家光の正妻の実家です。姉の輿入れとともに江戸に下向し、5000石の旗本となりましたが、後に紀伊頼宣の娘が嫁ぎ、間に子が生まれたので上野(群馬県)吉井1万石の大名になったもの。


水戸家初代頼房は子宝に恵まれ、長男頼重の高松松平家12万石を筆頭に4つの連枝がありました。

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長男でありながら水戸家を継げなかった頼重。
実は頼重・光圀の兄弟は水子にされる運命でした。父頼房が妻を持つ前に側室の子として生まれたため、世間をはばかって流産させられるところを家臣の機転で助かり、そのまま家臣の家で養育されていました。兄弟ともに同じ母から生まれたのですが、なぜか二男である光圀が世子(跡継ぎ)となります。これは兄頼重が生まれた頃には尾張、紀伊ともに子がなかったため、父頼房がはばかったそうです。
真偽のほどはわかりません。第一頼房は終生正室を持たなかったし、生年の問題も、後から認知してしまったらそんなに重大ではないと思えるのです。やはり光圀が英明だったからではないでしょうか。
光圀は兄を差し置いて水戸家を継いだことにわだかまりがあったようです。そこで兄の子を本家の、自分の子を兄の家の後継にしました。
家光も頼重の境遇には同情し、下館5万石であったのを高松12万石にしてあげてます。他の御連枝が2=3万石なのに比べ、これは破格といえましょう。



尾張家には三つの分家がありましたが、幕末まで続いたのは高須藩のみでした。

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これら御連枝は石高は少ないながらも御三家の分家として高い格式を誇りました。その格式を維持するのは困難であり、領土経営や家臣の知行までも本家の援助を受けていました。

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by fouche1792 | 2006-07-14 12:50 | 尾張徳川十七代
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歴史読本1998年4月号 『徳川御三家 尾張・紀伊・水戸家、将軍家との闘争史』148頁より転写

画像をクリックしていただくと拡大表示されます。多少見やすくなるかも。。。

1650年父義直死去により26歳で2代藩主となり、1693年69歳で隠居するまで43年間藩主の座にいつづけました。隠居後も藩政をリードし続け、1700年に76歳で死去。在任期間は父義直の47年間に劣るものの、義直の場合は4歳で、しかも甲府城主としのスタートでしたから、名古屋城主として考えると歴代最長。そして寿命も歴代最長です。

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by fouche1792 | 2006-07-12 18:15 | 尾張徳川十七代

番外 義直の顔 その2

大掃除をしましたら、こんなのが出てきました。
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2000年に名古屋城で催された特別展のパンフレットです。
表紙上が以前紹介した壮年期の義直。下は大坂夏の陣図だそうです。
この義直画像、解説には
衣冠束帯を着けて坐した徳川義直の肖像画で、義直熟年の容貌からは文武両道に通じた質実剛健の人柄が偲ばれる。原本は名古屋市中区清浄寺に伝えられていたが、第二次世界大戦で焼失した。本図は昭和十二年(一九三七)桜井清香によって拡大模写されたものである。

とあります。小さな画像だったのですね。
桜井清香さん(1895~1969)とは、徳川美術館のHPによりますと、同美術館に二十数年勤務しておられた大和絵画家であり、研究家で、源氏物語絵巻など原本を多数目にし、模写、復元模写を多数残しておられます。
*徳川美術館についてはいずれ19代の徳川義親さんのところでご紹介しましょう。

パンフレット裏表紙には少年期の義直の木像が。
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小さいので部分を拡大しました。

昭和50年代の歴史雑誌などにはたいていこの木像の写真が載っておりました。実物を目にしたのはこの展示が初めてだったのですが、10cmにも満たない、ずいぶん小さいもので驚きました。京都の清涼院というかつて伏見城の敷地内にあったお寺にあるもので、義直の生母お亀の方(相応院)はここにある観音像をあつく信仰していたそうです。そのお亀の方の画像も清涼院に伝わっています。

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by fouche1792 | 2006-07-08 14:58 | 尾張徳川十七代
光友(みつとも)が藩主の座にあったのは1650年~1696年。4代将軍家綱、5代将軍綱吉の時代に当たります。いわゆる文治政治の時代です。

1651年に3代将軍家光が48歳で死去。後を継いだのは長男の家綱。わずか11歳でした(年齢はすべて数え年)。それ以前は成人してからの将軍就任であり、しかも前代が大御所として生存中でしたから、ここに来て徳川幕府は初めて幼君を戴くことになったわけです。
この機に乗じて幕府転覆をはかったのが由井正雪(ゆい・しょうせつ)。その背景には3代家光までの強硬な武断政治にたいする不安不満がありました。大名の改易が数多く行われ、浪人が巷にあふれていたのです。そして島原の乱(1638年)以後徐々に武士階級が経済的に没落してゆく中で、仕官していない彼らはますます困窮してゆきました。
正雪の企ては事前に露見し、首謀者の逮捕、自害などで不発に終わるのですが(慶安の変)、翌年にも浪人による老中襲撃事件が露見。幕府は浪人対策に力を注ぐようになります。

*この事件の黒幕に紀伊家初代の頼宣(よりのぶ)がいたという噂が当時からありましたが、真相はいまだ不明です。

あきらかに世の中も変わってきました。
それまでの武断政治では世を治めることが難しくなり、幕府は法の整備、学問の奨励をしてゆくようになります。

国内が平和になると生産力も増大します。大名達も米本位の経済ですから、新田開発を行い、増産に努めました。
資料によって差がありますが、江戸時代の最初の100年間で米の生産量は3000万石近くになりました。3割から4割近くの増加だそうです。ちなみに1石はおよそ160kg。人間一人が一年で消費する量だといいます。ですから江戸時代の人口はだいたい3000万人。これまたちなみに、現代日本の米の生産量はおよそ9000万石。農地は狭くなりましたが技術が進歩したこと、一人当たりの米の消費量が減った(およそ60㎏~70㎏)ので1億2000万人を養ってゆけるのですね。

江戸初期の「名君」たちはこのような世の中の動きに則した政治を行った人たちでした。
閑谷学校(しずたにがっこう)を作った岡山藩の池田光政(いけだ・みつまさ)。家光の異父弟で幼君家綱をよく支えた会津の保科正之(ほしな・まさゆき)。その正之の娘を夫人とし、正之の後見のもとに藩政改革をスタートさせた加賀100万石の前田綱紀(まえだ・つなのり)
彼らはいずれも儒学者をブレーンとし、学問を奨励、新田開発を行って収入を増加・安定させ、藩の制度を確立してゆきました。

*教科書や教養書では名君に数えられていますが、徳川光圀(水戸黄門)をここに入れることはできません。学問奨励、大日本史編纂開始、綱吉への諫言など目立つ行動をしておりますが、一方でこの時期の水戸藩の年貢率が8割に近かった事実を考えますと、収入を度外視して見栄えのいい事業を行った暴君ともいえます。光政、正之、綱紀と並べることはできません。

尾張初代義直(よしなお)、2代光友もまた、恵まれた地位、立地、時代をうまく活かして尾張藩の基礎を固めた名君でありました。

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by fouche1792 | 2006-07-05 10:56 | 尾張徳川十七代
3,8,15の法則

歴史にはしばしば興味深い偶然があります。例えば歴代のソ連(ロシア)の指導者を並べると。。。
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(↑画像はクリックで拡大します)
見事にハゲ→フサ→ハゲ→フサ……と並んでいますね~。

わが国には鎌倉室町江戸の三つの幕府がありました。それぞれの幕府を比較しますと、これまた次のような偶然があります。
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(↑クリックで画像が拡大)
受験生などはこうした偶然に着目して事項を整理し、覚えてゆきます。

この表にあるとおり家光の時代は幕府の確立期で、老中、若年寄などといった幕府組織が固まったのもこの頃です。組織が固まってきますと、将軍個人の資質がどうあれ、家臣がしっかり補佐しておりますから、幕府権力はゆるぎないものとなってきました。
家光個人は優秀ではなかったですが、己の置かれた位置をよく理解していたといえます。
義直いさかいはありましたが、一方で、今や最大の大名となった(すなわち最大の仮想敵国となった)尾張家との縁組もしております。


千代姫

先日申しましたように家光は男色趣味がたたって、長い間子供がいませんでした。長女千代姫が生まれたのが寛永14年(1637年)。家光34歳(以下年齢はすべて数え年)。
将軍家の女子は、他の大名の例に漏れず、政略結婚の手駒であります。二代将軍秀忠の長女千姫豊臣秀頼に、末子和子後水尾天皇に嫁いだように。
そして家光は千代姫を尾張家に、家光の子、五代将軍綱吉鶴姫紀伊家に嫁がしています。

千代姫が尾張家に輿入れしたのは寛永16年(1639年)。わずか3歳の花嫁でありました。夫は義直の長男、光友で、こちらは13歳。とはいえ、尾張名古屋にやってきたわけではありません。大名の妻子は江戸に住まうのが原則でありましたから。
何かと将軍家と軋轢のあった尾張家ですが、これで安泰であろうと、父義直と祖母(つまり義直の母)相応院は胸をなでおろしました。ところがここでも家光がプレッシャーをかけます。家光は相応院に上司を遣わし、次のように申し渡しました。

「尾張殿のたっての望みゆえ、天下にも変えがたい、大切な姫君をさしあげるのだ。相応院にも、大事に守り立てていただきたい」

相応院はこれを聞いて大変悩んだそうです。当時の乳幼児死亡率は今と比べ物にならないくらい高いものでしたから(詳しくは「4代 徳川吉通」の項をご覧下さい)。
相応院が死んだのは寛永19年(1640年)。一説によれば、千代姫養育の心労がたたった為とのこと。あながち否定はできません。

千代姫は無事に成人し、承応元年(1652年)には後に尾張家三代当主となる綱誠(つななり)、明暦2年(1656年)には高須松平家初代となる義行を生んでいます。元禄11年(1698年)死去。63歳。

千代姫が尾張家に輿入れしたときに持参した豪華絢爛たる花嫁道具は現在徳川美術館で見ることができます。

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by fouche1792 | 2006-02-28 17:18 | 尾張徳川十七代
将軍家と尾張家の争いと言えば、吉宗宗春が有名ですが、実は初代義直も何度か家光と衝突したことがあります。

先に見たような両者の性格の違いもあるでしょうが、何よりも「生まれながらの将軍」として、全ての諸大名を家臣化していった幕府の方針とぶつかったのです。
もちろん義直は

「兄弟相和して宗家を盛りたてよ」

との家康の遺言を忘れたわけではありません。諸大名のトップとして、率先して将軍家を守り立てるつもりでした。
しかし甥(わずか4歳差ですが)の高飛車な仕打ちに、彼の自負心が何度も傷つけられます。


将軍家ご危篤

寛永10年(1633年)に家光が病気になりました。病状は芳しくなく、危篤との噂が流れました。そのころはまだ嫡男家綱が生まれておりませんでしたので、万が一のことがあれば将軍家が途絶えてしまいます。
このとき行動を起こしたのが義直。急遽江戸へ向かいます。
あわてた幕府首脳。

「なぜ許可もなく江戸へ参られたのですか」
「今、将軍家にお子無し。家系が途絶えるのは天下の一大事ではないか」

つまり自分の出番だ、というのですね。
とはいえ、いくら義直と言えど許可なく江戸へ入れるものではなく、すごすごと引き返すことに。
この時より

「尾張殿に謀反の意あり」

と睨まれ、警戒されるようになりました。

事実この時期には、外様大名で将軍家に逆らえる実力のあるものは一人もおりません。あまたの大名が改易の憂き目に会った中で、尾張、紀伊の両家が最大の大名として残ってしまいました。将軍家に次ぐ格式と経済力を持って。

義直に野心があったかどうか。私なりの推測をお許しくだされば、彼は将軍家にとって代わるまでは思っていなかったでしょう。生来の四角四面ゆえに、天下騒乱を未然に防ぐために江戸へ下ったのだと思います。
しかしながら、はたから見れば「野心あり」とされても言い訳できない行動でありました。

鎌倉時代にも同じようなことがありました。
1193年、富士の巻き狩りで有名な曽我兄弟のあだ討ちが起こったときのこと。
この時頼朝も殺されてしまった、との風聞が鎌倉に伝わりました。
嘆き悲しむ北条政子

「後にはそれがしがおりますから、安心めされい」

と言ったのが弟の範頼(のりより;義朝の六男で、頼朝の弟、義経の兄)。
この一言が原因で、実は死んでいなかった頼朝に

「将軍位を狙っているのでは」

疑われ、伊豆修善寺に押し込められ、やがて殺されてしまいます。

これを考えると、義直の行動はやはり軽率であったと言うしかありません。


名古屋城篭城

寛永11年(1634年)、家光は京へ上ることになり、その帰路、名古屋へ立ち寄ることを義直に告げました。
将軍のおなりとなれば、それは家門の誉れ。門や屋敷を新築するのがならいです。義直も城内の本丸御殿を改修。新たに御成書院(上洛殿)や御湯殿などが造られました。

ちなみに江戸時代の大名は天守閣に住んでいたわけではありません。城内の御殿に住み、そこで政務を執っていました。名古屋城にはかつて本丸御殿(戦前は天守閣とともに国宝)と二の丸御殿、二つの御殿がありました。本丸御殿は将軍家のおなり御殿として使用されるようになり、藩主は以後二の丸御殿に住むようになりました。将軍家の立ち寄る本丸御殿はたいそう豪華だったそうです。戦災で消失したのが惜しまれます。

ところが家光は急遽予定を変更。名古屋城には立ち寄らないことに。
おそらくは前年のしこりが残り、警戒していたのでしょう。
これには義直、面目丸つぶれ。莫大な費用と手間をかけて御殿を改築したのもすべて無駄。
将軍家に弓引くことは父の遺言にそむくことですが、義直にも武士の意地があります。

そこで弟の頼宣(よりのぶ;紀伊家初代)に胸のうちをぶちまけます。

「このたびのお上のなされようはあまりにもひどい。おかげで私は天下の笑いもの。骨を折った家臣、領民たちにも申し訳が立たぬ。かくなる上は名古屋城に篭城して、一矢報いようと思う」

驚いた頼宣。父の遺言を忘れたのかと、必死に説得しますが、義直は聞きません。

「私にも意地というものがある」
「しかし、たとえ名古屋城が天下の名城といえど、将軍家ならびに全国の諸大名を敵に回しては勝ち目はありますまい」
「命が惜しいのではない。名が惜しいのだ」

そこで頼宣、はらはらと涙を流し

「兄上がそこまで覚悟なされているならば、もはや止めはいたしません。しかしながら、戦うからには勝たねばなりません。これぞ真の武士と言うもの。ならば篭城は下策。勝ち目のない戦を仕掛けて死んでしまってはそれこそ天下の笑いものとなりましょうぞ。
かくなる上は城より打って出て、将軍家帰路の途中を攻めませい。及ばずながら私めも兵を挙げます。ともに戦いましょうぞ。もし勝てれば天下は我らのもの。敗れれば、兄弟揃っていさぎよく果てましょう」

驚いた義直。弟の誠心に涙を浮かべながら、

「当家のために、そなたまで巻き添えにするわけにはいかぬ。それこそ神君(家康)に申し訳が立たぬ。ここは忍従しよう」
「わかってくださりましたか」

こうして将軍家光は無事江戸に帰ることができました。
後には将軍位を激しく争うことになる尾張と紀伊ですが、この時代にはまだ兄弟の間柄。近しい存在でありました。


竹千代

さて、長い間子宝に恵まれなかった家光にも1641年に嫡男が誕生します。
*家光に長い間子がなかったのは、男色にふけっていたからだそうです。>春日の局も痛く心配して、何人もの美女を大奥に送り込んだそうです。
春日の局が家光に寄せた愛情はまことに厚いもので、母にあまり愛されなかった家光を慈しみました。食べ物の好き嫌いが激しかった彼のために、わざわざ五色のご飯を作らせたこともあったそうです。

将軍家嫡男の名前は竹千代。後の四代将軍家綱です。
この竹千代の山王社初詣の際三家も供奉を命じられました。これにカチンと来たのが義直。

「大納言である私が、無位無官の竹千代様に供奉はできない」

しかし、はいそうですか、では済まされません。老中(知恵伊豆こと松平信綱)はなんとかなだめようとします。

「とはいえ、竹千代様は将軍家のお子でございます」
「親の官位が尊いというのならば我らこそ太政大臣の子ではないか」
「上様のためです。そこは曲げて、お供してもらいたい」
「典礼を曲げることはかえってお上のためにならぬ」

こうして義直らは山門で竹千代を迎え、そこから一緒したそうです。



う~む。こうやって書いてみると、どうも義直の分が悪いですねえ。
確かに礼儀を重んじ、皇室を尊び、理を曲げないのはいいことでしょうが、彼は意地を張りすぎました。ちょっと大人気ないですね。

とはいえ、家光の方も態度に問題はありました。

当初義直たちは「尾張様」、「紀伊様」と呼ばれておりました。
これにむっとしたのが家光。「上様」である自分と同じ様づけとは何事だ、と気色ばんだといいます。
この頃から「尾張殿」「紀伊殿」と殿づけでよばれることに。

義直が1650年に病死したことは先日書きました。
この時も家光はあっさりしたもので、わずかな日数のうちに、紀伊家、水戸家に

「これで早々に精進落としをなされい」

と生臭物を賜ったそうです。

どこまでもそりの合わぬ二人でした。

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by fouche1792 | 2006-02-25 22:43 | 尾張徳川十七代

番外 義直の顔

先日書きました義直の肖像です

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by fouche1792 | 2006-02-23 10:11 | 尾張徳川十七代
義直の人柄

尾張家初代義直(よしなお)は、よく言えば謹厳実直、悪く言えば頑固者で面白みがない人でした。
彼の人柄を表すこんなエピソードがあります。

義直の正室は春姫。紀州藩主(後に広島藩主)、浅野幸長(ゆきなが)の娘です。外様の雄藩、そして豊臣家恩顧の大名である浅野家との結びつきを強めるための政略結婚でした。
彼女との間には長い間子供がありませんでしたので、家臣は側室を迎えるようにすすめたところ、義直はかなり渋っていたそうです。
春姫を愛していた、それもあるかもしれませんが、彼は側室を持つのは道徳的によろしくない、と思っていたのです。彼はかなり儒教に染まっていましたから。
けれども後継者問題は深刻ですから、家臣たちも引き下がれません。そこで紀伊家初代頼宣(よりのぶ)に働きかけ、頼宣の薦めもあって、やっと側室を迎えることに同意。二代藩主光友(みつとも)が生まれたのは義直26歳のときでした。

義直は眠るときも神君家康の子としての自覚を忘れませんでした。
なんと、寝返りを打つたびに脇差を置き換えていたといいます。いつ敵に襲われてもおくれをとらぬように、です。一体いつ眠っていたんだよ、と思わず突っ込みたくなります。
これは事実ではないかもしれませんが、このような風評が立つほど、彼はマジメ君だったのです。友人にするにしても、上司(主君)にするにしても、息が詰まりそうですね。

そんな義直、1650年に病死してしまうのですが、病床にふせっていても一切の不平不満を漏らさず、しかも苦痛を顔にあらわすことも、うめき声を上げることもありませんでした。
「みっともないから」
という理由で。武士として、神君家康の子として、恥ずかしくない生き方をしたい、これが彼のポリシーでした。

現在残っている彼の肖像は(私が確認したもので)2つ。一つは母お亀の方が作った木像。おそらく少年時代のもの。もう一つは壮年になった彼の画像。ただし、原本は失われ、残っているのは模写ですが。
少年時代の彼は丸顔でかわいらしいのですが、壮年の彼は本当に頑固者、といった感じです。ものすごいしかめ面をしてます。

彼の学問好きは有名で、特に儒学と神道に深く傾倒しました。水戸黄門として有名な徳川光圀(みつくに;水戸徳川家二代)はこの伯父を深く尊敬し、自身も学問に造詣が深く、後に『大日本史』編纂にかかずらうのです。
*ちなみに私は過去にとりあげたことがありますが、光圀という殿様をあまり高く評価しておりません。詳しくはコチラコチラをご覧ください。

義直の理想はかなり高く、プライドも同じくらいに高いものでした。


三代将軍家光

尾張義直・紀伊頼宣・水戸頼房(よりふさ)の三兄弟は三代将軍の家光とは叔父甥の間柄とは言え、はほとんど同じ年齢でした。

徳川義直 1600年生まれ
徳川頼宣 1602年生まれ
徳川頼房 1603年生まれ
徳川家光 1604年生まれ

家光という人は良くも悪くも典型的な三代目でありました。
幼少期にはちょっとぼんやりしたところがあったらしく、ために父秀忠、母江与の方浅井長政の娘で、淀殿の妹)は家光より弟の忠長(ただなが)を後継者に、と思っていた時期もあったようです。そうと知ってあせったのが、家光の乳母、お福。有名な春日の局そのひとであります。彼女は家康に直訴し、それがあって家光は秀忠の後継者となったのでした。
もちろん、そこは家康のこと。一女人の言うなりになったのではありません。戦国の世終わり、太平の世となった今では、後継者争いはいらぬ騒乱のもと。子供たちの資質の優劣でことを決めれば、敗者やその側近は必ず恨みを覚えるでしょう。ならば、資質など関係なく、長幼の序で決めてしまえばよい。創業期と違って安定期に入れば組織も固まり、有能な家臣が補佐するから大丈夫だろうと。まあ、こういう理屈なんですね。

家光は生涯祖父には非常に感謝してました。家康を祭った日光東照宮が今見るように豪華になったのは彼の時代ですし、日光参拝が一番多かった将軍も彼です。
逆に父母に対しては。
おそらく家光という人は表面はともかく、内面は繊細だったのでしょう。
彼は長い間素行が改まらなかったといいます。非常に派手な服を着て、夜中に城を抜け出したり、辻斬りをしたりなど、今で言うツッパリ、ヤンキーめいたこともしております。これもどこまで事実かはわかりませぬが、義直と同様、このような噂が残っていること自体が彼の性格を物語っていると言えるでしょう。

家光が三代将軍となったのは1623年。二十歳の年(年齢は数え年)。
しかし大御所として父秀忠が後ろに控えておりました。

秀忠が在世中はそれほど問題はありませんでした。
秀忠にしてみれば御三家当主たちはまだまだ子供。いかようにも扱える存在だったし、なにより律義者の彼のこと。父家康からくれぐれも頼むと言われたこともあって、三人を特別扱いしました。
ところが家光の世になってから、義直と家光の間がきな臭くなってくるのです。

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by fouche1792 | 2006-02-21 22:23 | 尾張徳川十七代