江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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7代 徳川宗春

<この記事は05年2月17日『東海雑記』に書いたものです>

中京の繁栄の基を築いた理想主義者


今日2月17日、中部国際空港、セントレアが開港しました。
そして3月15日には愛・地球博の開催。
開催に向け、JR,私鉄、地下鉄の駅もどんどんきれいに、新しくなってゆきます。

以前「尾張徳川家について」をUPしましたら、たくさんの方からコメントをいただきました。皆様の関心の高さに改めて気づかされました。
他府県の方から「名古屋はがんばってるね」と言われることもしばしば。
「名古屋ががんばっている」この状況、今から300年ほど前にも同じことがありました。

その頃は8代将軍徳川吉宗による「享保の改革」の真っ最中。
倹約倹約と緊縮政策を推し進め、世の中の火が消えてしまったようになった頃、ひとり名古屋だけが明るく瞬いていました。
尾張藩7代藩主、徳川宗春(とくがわ・むねはる)の積極策によるものです。多くの規制を緩和し、遊興や祭礼を奨励。消費は拡大し、上方(京都、大坂)・江戸の商人・芸人は続々と名古屋に集まり、現代の中京の基となる繁栄を招きました。

吉宗と逆の政策を打った宗春。
とはいえ宗春はいたずらに吉宗に逆らっていたわけではありません。よく言われる、8代将軍をめぐっての尾張と紀伊の争いに敗れたことを恨んででもありません。宗春はそんな小さな枠に収まりきれないほど、ユニークな殿様でした。

徳川宗春は3代藩主徳川綱誠(つななり)の20男として生まれました。何事もなければ部屋住みとして、捨扶持を与えられ、朽ちていったことでしょう。しかし一族の相次ぐ死により、陸奥梁川3万石、ついで尾張藩61万石を相続。一代の幸運児でありました。ここまでの道のりは吉宗とよく似ています。吉宗も部屋住みから小藩の藩主、紀伊徳川家の当主、そして将軍へと昇り詰めたのです。

かように良く似た境遇の二人でしたが、性格は正反対。現実的でしたたかな政治家であった吉宗と、理想主義で派手好きな宗春。
宗春の政治思想は彼自身の著した『温知政要(おんちせいよう)』にあらわれています。政治の要は「仁」であり、慈悲と忍耐で行っていく、これが宗春の理想でした。
人間の本性は善であるとし、治世9年間の間に一人の処刑者も出さず、「民とともに楽しむ」世の中を目指しました。
封建社会にあって「人の好みは人それぞれである」と個性を尊重するような発言もあります。

では宗春はどのような政治を展開し、挫折したのか。
引き続きご紹介してゆきたいと思います。
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by fouche1792 | 2005-09-18 11:06 | 尾張徳川十七代