江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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2代 徳川光友 御連枝

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忠臣蔵で有名な浅野内匠頭は播州赤穂浅野家の三代目。赤穂浅野家は広島浅野家の分家です。幕府に御三家があったように大身の外様大名などには万石以上の分家がありました。
中には特殊な例もありますが、大体が分知、自分の領土を分けあたえるのが普通でした。

御三家の分家大名は松平を名乗り、御連枝と呼ばれています。分家を立てることについて、尾張家初代義直のこんなエピソードが残っています。

かつて紀伊頼宣が、子の頼純(よりずみ)に紀伊55万石の内10万石を割いて分家させようと企画したことがありました。そこで胸中を安藤・水野の両付家老に打ち明けたところ、両名は口をきわめて反対。しかし頼宣の決意は固く、聞き入れる様子はありません。
「では、義直殿のご意見を伺おう」
と言うのみでした。
そこで紀伊家家臣は夜に入って尾張家の屋敷に伺候し、自分達の見解を義直に打ち明けるのでした。
「どうか主君頼宣の今回の企てをお止めいただきたく存じます。今のところは御父子の間柄ですから何の問題もございますまい。しかし徳川の御代がいついつまでも太平ならば、本家・分家ともに代々を重ねますから、その間柄は次第に疎遠になり、他人とあまり変わらなくなります。さすれば同国内に他領が混在するのと同じこと。もしも分家が断絶すればどうなりましょうか。領地は収公されるやもしれません」
義直はもっともなこととうなずき、頼宣に強く意見したため、頼宣も断念したそうです。

ところが義直死後の1670年には頼純は伊予(愛媛県)西条3万石の領主となっています。

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これはどうしたことでしょう?

実は御連枝諸家は分知ではなく、幕府から新たに領地を与えられる形で大名となっているのです(水戸の分家は当初分知であったが、後に他領に振り替えとなり、領土を本家に戻している)。そして何より本家が断絶する憂いを除くためでした。
吉宗が8代将軍となった後、頼純の子、頼致(よりよし)が紀伊家6代藩主となり、宗直(むねなお)となります。
紀伊家にはこの西条松平家のほかに松平鷹司家という御連枝があります。こちらは特殊な大名で、鷹司(たかつかさ)の名前のとおり、元はお公家さん。3代将軍家光の正妻の実家です。姉の輿入れとともに江戸に下向し、5000石の旗本となりましたが、後に紀伊頼宣の娘が嫁ぎ、間に子が生まれたので上野(群馬県)吉井1万石の大名になったもの。


水戸家初代頼房は子宝に恵まれ、長男頼重の高松松平家12万石を筆頭に4つの連枝がありました。

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長男でありながら水戸家を継げなかった頼重。
実は頼重・光圀の兄弟は水子にされる運命でした。父頼房が妻を持つ前に側室の子として生まれたため、世間をはばかって流産させられるところを家臣の機転で助かり、そのまま家臣の家で養育されていました。兄弟ともに同じ母から生まれたのですが、なぜか二男である光圀が世子(跡継ぎ)となります。これは兄頼重が生まれた頃には尾張、紀伊ともに子がなかったため、父頼房がはばかったそうです。
真偽のほどはわかりません。第一頼房は終生正室を持たなかったし、生年の問題も、後から認知してしまったらそんなに重大ではないと思えるのです。やはり光圀が英明だったからではないでしょうか。
光圀は兄を差し置いて水戸家を継いだことにわだかまりがあったようです。そこで兄の子を本家の、自分の子を兄の家の後継にしました。
家光も頼重の境遇には同情し、下館5万石であったのを高松12万石にしてあげてます。他の御連枝が2=3万石なのに比べ、これは破格といえましょう。



尾張家には三つの分家がありましたが、幕末まで続いたのは高須藩のみでした。

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これら御連枝は石高は少ないながらも御三家の分家として高い格式を誇りました。その格式を維持するのは困難であり、領土経営や家臣の知行までも本家の援助を受けていました。

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by fouche1792 | 2006-07-14 12:50 | 尾張徳川十七代