江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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2代 徳川光友 江戸初期の名君たち

光友(みつとも)が藩主の座にあったのは1650年~1696年。4代将軍家綱、5代将軍綱吉の時代に当たります。いわゆる文治政治の時代です。

1651年に3代将軍家光が48歳で死去。後を継いだのは長男の家綱。わずか11歳でした(年齢はすべて数え年)。それ以前は成人してからの将軍就任であり、しかも前代が大御所として生存中でしたから、ここに来て徳川幕府は初めて幼君を戴くことになったわけです。
この機に乗じて幕府転覆をはかったのが由井正雪(ゆい・しょうせつ)。その背景には3代家光までの強硬な武断政治にたいする不安不満がありました。大名の改易が数多く行われ、浪人が巷にあふれていたのです。そして島原の乱(1638年)以後徐々に武士階級が経済的に没落してゆく中で、仕官していない彼らはますます困窮してゆきました。
正雪の企ては事前に露見し、首謀者の逮捕、自害などで不発に終わるのですが(慶安の変)、翌年にも浪人による老中襲撃事件が露見。幕府は浪人対策に力を注ぐようになります。

*この事件の黒幕に紀伊家初代の頼宣(よりのぶ)がいたという噂が当時からありましたが、真相はいまだ不明です。

あきらかに世の中も変わってきました。
それまでの武断政治では世を治めることが難しくなり、幕府は法の整備、学問の奨励をしてゆくようになります。

国内が平和になると生産力も増大します。大名達も米本位の経済ですから、新田開発を行い、増産に努めました。
資料によって差がありますが、江戸時代の最初の100年間で米の生産量は3000万石近くになりました。3割から4割近くの増加だそうです。ちなみに1石はおよそ160kg。人間一人が一年で消費する量だといいます。ですから江戸時代の人口はだいたい3000万人。これまたちなみに、現代日本の米の生産量はおよそ9000万石。農地は狭くなりましたが技術が進歩したこと、一人当たりの米の消費量が減った(およそ60㎏~70㎏)ので1億2000万人を養ってゆけるのですね。

江戸初期の「名君」たちはこのような世の中の動きに則した政治を行った人たちでした。
閑谷学校(しずたにがっこう)を作った岡山藩の池田光政(いけだ・みつまさ)。家光の異父弟で幼君家綱をよく支えた会津の保科正之(ほしな・まさゆき)。その正之の娘を夫人とし、正之の後見のもとに藩政改革をスタートさせた加賀100万石の前田綱紀(まえだ・つなのり)
彼らはいずれも儒学者をブレーンとし、学問を奨励、新田開発を行って収入を増加・安定させ、藩の制度を確立してゆきました。

*教科書や教養書では名君に数えられていますが、徳川光圀(水戸黄門)をここに入れることはできません。学問奨励、大日本史編纂開始、綱吉への諫言など目立つ行動をしておりますが、一方でこの時期の水戸藩の年貢率が8割に近かった事実を考えますと、収入を度外視して見栄えのいい事業を行った暴君ともいえます。光政、正之、綱紀と並べることはできません。

尾張初代義直(よしなお)、2代光友もまた、恵まれた地位、立地、時代をうまく活かして尾張藩の基礎を固めた名君でありました。

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by fouche1792 | 2006-07-05 10:56 | 尾張徳川十七代