江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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初代 徳川義直  家光と義直

義直の人柄

尾張家初代義直(よしなお)は、よく言えば謹厳実直、悪く言えば頑固者で面白みがない人でした。
彼の人柄を表すこんなエピソードがあります。

義直の正室は春姫。紀州藩主(後に広島藩主)、浅野幸長(ゆきなが)の娘です。外様の雄藩、そして豊臣家恩顧の大名である浅野家との結びつきを強めるための政略結婚でした。
彼女との間には長い間子供がありませんでしたので、家臣は側室を迎えるようにすすめたところ、義直はかなり渋っていたそうです。
春姫を愛していた、それもあるかもしれませんが、彼は側室を持つのは道徳的によろしくない、と思っていたのです。彼はかなり儒教に染まっていましたから。
けれども後継者問題は深刻ですから、家臣たちも引き下がれません。そこで紀伊家初代頼宣(よりのぶ)に働きかけ、頼宣の薦めもあって、やっと側室を迎えることに同意。二代藩主光友(みつとも)が生まれたのは義直26歳のときでした。

義直は眠るときも神君家康の子としての自覚を忘れませんでした。
なんと、寝返りを打つたびに脇差を置き換えていたといいます。いつ敵に襲われてもおくれをとらぬように、です。一体いつ眠っていたんだよ、と思わず突っ込みたくなります。
これは事実ではないかもしれませんが、このような風評が立つほど、彼はマジメ君だったのです。友人にするにしても、上司(主君)にするにしても、息が詰まりそうですね。

そんな義直、1650年に病死してしまうのですが、病床にふせっていても一切の不平不満を漏らさず、しかも苦痛を顔にあらわすことも、うめき声を上げることもありませんでした。
「みっともないから」
という理由で。武士として、神君家康の子として、恥ずかしくない生き方をしたい、これが彼のポリシーでした。

現在残っている彼の肖像は(私が確認したもので)2つ。一つは母お亀の方が作った木像。おそらく少年時代のもの。もう一つは壮年になった彼の画像。ただし、原本は失われ、残っているのは模写ですが。
少年時代の彼は丸顔でかわいらしいのですが、壮年の彼は本当に頑固者、といった感じです。ものすごいしかめ面をしてます。

彼の学問好きは有名で、特に儒学と神道に深く傾倒しました。水戸黄門として有名な徳川光圀(みつくに;水戸徳川家二代)はこの伯父を深く尊敬し、自身も学問に造詣が深く、後に『大日本史』編纂にかかずらうのです。
*ちなみに私は過去にとりあげたことがありますが、光圀という殿様をあまり高く評価しておりません。詳しくはコチラコチラをご覧ください。

義直の理想はかなり高く、プライドも同じくらいに高いものでした。


三代将軍家光

尾張義直・紀伊頼宣・水戸頼房(よりふさ)の三兄弟は三代将軍の家光とは叔父甥の間柄とは言え、はほとんど同じ年齢でした。

徳川義直 1600年生まれ
徳川頼宣 1602年生まれ
徳川頼房 1603年生まれ
徳川家光 1604年生まれ

家光という人は良くも悪くも典型的な三代目でありました。
幼少期にはちょっとぼんやりしたところがあったらしく、ために父秀忠、母江与の方浅井長政の娘で、淀殿の妹)は家光より弟の忠長(ただなが)を後継者に、と思っていた時期もあったようです。そうと知ってあせったのが、家光の乳母、お福。有名な春日の局そのひとであります。彼女は家康に直訴し、それがあって家光は秀忠の後継者となったのでした。
もちろん、そこは家康のこと。一女人の言うなりになったのではありません。戦国の世終わり、太平の世となった今では、後継者争いはいらぬ騒乱のもと。子供たちの資質の優劣でことを決めれば、敗者やその側近は必ず恨みを覚えるでしょう。ならば、資質など関係なく、長幼の序で決めてしまえばよい。創業期と違って安定期に入れば組織も固まり、有能な家臣が補佐するから大丈夫だろうと。まあ、こういう理屈なんですね。

家光は生涯祖父には非常に感謝してました。家康を祭った日光東照宮が今見るように豪華になったのは彼の時代ですし、日光参拝が一番多かった将軍も彼です。
逆に父母に対しては。
おそらく家光という人は表面はともかく、内面は繊細だったのでしょう。
彼は長い間素行が改まらなかったといいます。非常に派手な服を着て、夜中に城を抜け出したり、辻斬りをしたりなど、今で言うツッパリ、ヤンキーめいたこともしております。これもどこまで事実かはわかりませぬが、義直と同様、このような噂が残っていること自体が彼の性格を物語っていると言えるでしょう。

家光が三代将軍となったのは1623年。二十歳の年(年齢は数え年)。
しかし大御所として父秀忠が後ろに控えておりました。

秀忠が在世中はそれほど問題はありませんでした。
秀忠にしてみれば御三家当主たちはまだまだ子供。いかようにも扱える存在だったし、なにより律義者の彼のこと。父家康からくれぐれも頼むと言われたこともあって、三人を特別扱いしました。
ところが家光の世になってから、義直と家光の間がきな臭くなってくるのです。

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by fouche1792 | 2006-02-21 22:23 | 尾張徳川十七代