江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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初代 徳川義直  名古屋城築城

徳川義直は慶長5年(1600年)に家康の九男として生まれました。母は側室お亀の方(相応院)。お亀の方は元は竹腰正時の妻で、夫と死別後(離縁させられたという説もあります)家康の側室となりました。
異父兄に後に尾張藩附家老となる竹腰正信、同父兄には夭折した仙千代がいます。
幼名は千千代といいましたが、後に五郎太と改めました。城を築く時に楔(くざび)として打ち込む石を五郎太石(ごろたいし)といいます。石垣の大きな石と石の間につめます。家康は義直が天下の楔になるように、という願いを込めて五郎太と名付けたそうです。この五郎太という幼名は、将軍家の竹千代のように、尾張家嫡男の幼名となります。
義直が生まれたとき家康はすでに59歳。関が原の戦いに勝利し、天下を手中にしておりました。

4歳で甲府城主、8歳で兄松平忠吉病死により、清洲城主となります。まだ幼少であったため駿府の家康の下で養育され、藩政は傳役の平岩親吉(犬山城主)が見ました。
家康は尾張を大坂の豊臣家および西国大名に対する防壁として重要視し、清洲城では手狭なため、慶長14年(1609年)に名古屋へ遷府。そして加藤清正福島正則など豊臣恩顧の西国大名20家に命じて名古屋城を築かせました。このように天下人が諸大名に命じて工事を負担させる築城を天下普請といいます。豊臣秀吉の大阪城なども天下普請で築かれた城です。
天下普請には豊臣系大名の財力をそぐという目的もありました。
度重なる負担に福島正則は思わず愚痴をこぼしたといいます。

「近年江戸城、駿府城と築城が続いている。江戸城は将軍家の、駿府城は大御所の居城ゆえ仕方ないが、庶子の居城まで手伝わせるとはあんまりだ」

これを聞いた親友の加藤清正は

「不平があるなら国に戻り、兵を備えるがよろしい」

とさとしたそうです。

多くの人員と費用をかけた城は慶長19年(1614年)にほぼ完成。更なる拡張を計画されていましたが、翌年には豊臣氏が滅んだため、実行には移されませんでした。

名古屋城といえば

伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ

という言葉で有名です。実はこれ、もともとは

石はつって持つ、つって石持つ、尾張名古屋は城でもつ

という言葉だったとか。石垣に使う巨石を二艘の船と船の間につって、川で運んだ様子をうたった言葉だそうです。
名古屋城は天下の名城として名高く、その巨大な天守閣と華麗な本丸御殿は戦前国宝とされていました。
姫路城の巨大な天守閣と二条城の華麗な御殿が両方そろっていたのと同じようなものです。
(私のプロフィール欄にある白黒写真が戦前の天守閣と本丸御殿です)
しかしながら昭和20年(1945年)5月14日、戦災によりわずかの門、櫓を残し消失。あと3ヶ月すれば終戦でしたのに。

現在名古屋では名古屋城本丸御殿復興のための募金が行われております。

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by fouche1792 | 2005-11-12 23:23 | 尾張徳川十七代