江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

13代 徳川慶臧   松平春嶽の手紙

1845年、12代藩主斉荘(なりたか)の死後、幕府から送られてきたのは一橋斉匡(なりまさ)の息子慶臧(よしつぐ)。わずか10歳の少年でした。これには当時もう22歳になった松平秀之助改め義恕(よしくみ)も金鉄組の面々も落胆しました。自分より年下の藩主ですから、もはや自分たちの出番はなかろうと。

そんな空気を知ってか、慶臧の実兄で福井藩の養子となっていた松平慶永(よしなが)――後に幕末四賢侯の一人として勝海舟や坂本竜馬、徳川慶喜らとともに活躍した松平春嶽(しゅんがく)――が弟に手紙を出しております。

尾張家を継ぐことはまことに幸運であること。
家臣や領民が今度の殿様はどんな人か見守っているのだから、学問をおろそかにせず、家臣の言うことをよく聞きわけること。
養父母を実家の父母以上に大切にし、孝行すること。
領民には慈悲の心をもって接すること。


などを優しくこんこんと説いています。
当時春嶽もまだ18歳。家督を継ぐ前でしたが、さすが後に四賢侯の一人に数えられるだけあって、自分の立場はもとより弟の置かれた状況もよく分かっています。そして幼くして藩主となった弟に対する細やかな愛情。

かのマリア・テレジアも幼くしてフランス王家に嫁いだ娘マリー・アントワネットの身を案じ、何度も手紙のやりとりをして、身を慎むこと、気配りをすることなどを諭したといいます。残念なことにアントワネットにはあまり分かってもらえなかったようですが。


慶臧の方は藩主の座にあること4年、わずか14歳で世を去ります。
少年藩主でしたから、これといった事績は残っておりません。もちろん跡継ぎとなる子供もいません。

そして、ここにようやく藩士、領民待望の松平義恕が14代藩主となるのです。



とりあえずのまとめ


名古屋人は普段は堅実を好み、貯蓄に励み、冠婚葬祭などのいざというときは派手にふるまう。そんな気質の歴史的背景を、尾張徳川家の歴代を追うことで見てきました。

御三家筆頭として優遇され、豊かな土地で蓄えの多かった尾張。そこに宗春という個性的な君主をむかえ、名古屋の文化が花開きました。
そんな輝かしい治世もつかの間。いくら御三家筆頭といえど幕府には逆らえず、宗春は罰せられ、地味な、堅実な生き方がよいのだという認識がなされるようになります。
そして相次ぐ押し付け養子の50年間。幕府、お上には逆らえないけれども決して迎合しない。そんな反骨の精神が培われ、いざとなったら東京にも大阪にも負けないのだ、という現在の名古屋人の自負心につながっていったのです。
結婚や葬式などが派手になるのは、一世一代のことだから。これなら宗春のように罰せられません。

以上はあくまで一つの論に過ぎず、支配者の歴史だけを追っていって全てが分かるわけではありません。

ただ以上のような解釈もあることは事実です。



以上をもって尾張徳川家と現在の名古屋人気質との関連の考察は終わりです。
ですがこの後も尾張徳川家は14代慶勝、15代茂徳など、幕末に活躍した君主たちが続きます。

少しお時間をいただき、「幕末編」としてまた皆様にご紹介してゆきたいと思います。
その前に尾張徳川家のそもそもの成り立ちを振り返ってみたいと思います。
次回は「清洲城主 松平忠吉」です。
[PR]
by fouche1792 | 2005-11-06 22:26 | 尾張徳川十七代