江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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12代 徳川斉荘   金鉄組の結成

君主国の君主は、多くは血統でその地位を保ち続けています。
ですから他家からきた嫁や養子には容赦ないバッシングが行われることもあります。


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鳩を愛した斉温(なりはる)は1839年、子供を残さず死去。後を継いだのは実兄で当時田安徳川家を継いでいた斉荘(なりたか)30歳。 彼は極めて冷ややかな目で尾張家に迎え入れられました。
前代の斉温が一度も名古屋に来ることなく、政治もほったらかしで鳩を買うことに夢中だったのですから無理もありません。
加えて尾張徳川家の分家、高須松平家秀之助という優秀な少年がいたのです。藩士・領民たちは秀之助の藩主就任を待ち望んでいましたが、その願いもむなしく、またもや将軍家斉の子供が押し付けられたのです。しかも当時健在であった「大殿」斉朝(なりとも:10代藩主)にも一言も相談なく、幕府首脳と藩重臣のあいだで決められたのでした。


なぜ重臣たちは幕府の言いなりになっていたのでしょうか。

やはり逼迫した藩財政、だんだん修正のきかなくなった封建社会の矛盾があったからでしょう。時は天保。将軍は12代家慶(大御所家斉は健在)。家慶が将軍就任の1837年にはあの大塩平八郎の乱が起こっています。全国規模で社会制度のほころびが見え始めていました。
そんな時代ですから、将軍公子を藩主にいただくのは何かと心強い。いざとなれば幕府からの援助が当てにできます。一種の保険、というわけです。

しかし、それは掛け金の高い保険でありました。将軍家出身ですから、どうしても幕府に迎合してしまう。斉温が藩主のとき、江戸城西丸が炎上しました。多くの大名が「お手伝い普請」に駆り出されましたが、尾張家でも木曽の木材と巨額の金銀を献上しています。このとき尾張家の領地である木曽山林に幕府役人が無断で立ち入るという事件がありました。そのときでも強い態度に出れなかったのはひとえに藩主が将軍公子だからであろう、と多くの藩士が解釈しました。


では高須松平家の秀之助が人気が高かったのはなぜでしょうか。
尾張徳川家の分家、高須松平家でも藩祖義直の血統は断絶していました。秀之助の祖父、松平義和は水戸徳川家の出身です。母規姫も水戸家出身。ですから秀之助は最後の将軍徳川慶喜とは父系ではまたいとこ、母系ではいとこの関係になります。
血縁で言えば秀之助も斉荘と同じく、尾張家の血筋ではありません。
しかし将軍公子という上から押し付けられた養子ではなく、分家から格上げされた養子ならば意識も違ってきましょう。中央ばかりに顔を向けるのではなく、尾張にどっしりと腰をすえて政治を行ってくれるでしょう。
さらに父義建(よしたつ)という人がしっかりした人で、将来尾張藩主になるであろうわが子を厳しく教育しました。伯父の水戸斉昭も秀之助には目をかけていて、自分の息子(慶喜)の教育にも大いに参考としました。

このように藩士や領民たちは秀之助に期待したのですが、ふたを開けてみればまたしても将軍公子の押し付け藩主となったのでした。
これにはさすがに黙っていられない藩士も多く、そのときに出された多数の意見書が今も残っています。特に水戸家では同じようなケースで藩士たちの推す斉昭の家督が実現していただけに、尾張家だけがなぜ軽んじられるのか、と憤慨した人も多かったそうです。

秀之助も血統の上では尾張とつながっていないこと、大殿斉朝や重臣たちの必死の説得もあってなんとか斉荘の藩主就任が実現しました。
そんな中で幕府や重臣に不満を持つグループ、秀之助の藩主就任を熱望するグループが形成され宗春の罪を許し、歴代藩主並みの官位を与え、墓石の金網も撤去しました。宗春は死後75年にしてやっと安らかな眠りにつくことができたわけです。

斉荘も藩士の融和につとめます。就任後、評判の悪かった倹約令などを次々と廃止。新たな政策を模索しました。しかし悲しいかな彼には宗春や秀之助のようなビジョンというものがありませんでした。自分が尾張家をついだらどうするのか、どうしたいのか、が抜けていたわけです。
自分なりに頑張っていた斉荘ですが、その無策ぶりに実家の幕府からも意見されています。藩政に見るべきものが無い、法令の改廃は大抵にせよ、と。

あわれ斉荘。藩士領民から好かれず、幕府からも小言を言われ、現代の史家からも低い評価しかもらえず、何もなすことのないまま在任わずか6年にして死去。36歳。
一子昌丸(まさまる)は一橋家を継いでいたため、ここにまた、13代藩主をめぐって、将軍家=幕府と秀之助との争いが始まるのです。


斉荘は前代の斉温に比べればずっと思いやりのある、大人だったでしょう。自分のおかれた位置をよくわきまえ、決して奢らず、藩内の融和に努めたことからそれが分かります。彼がもう少し早く尾張家を継いでいたら、少なくとも10代の斉朝の後であれば、名君にはなれずとも、あそこまで反感を買うことは無かったでしょう。
まったく生まれた時代が悪かった。尾張藩の窮乏は彼一人の責任ではありません。ですが他家出身であること、将軍家からの「押し付け」であったことが彼の立場をまずくしました。これも彼の責任ではないのですが。


彼の生涯を見るとき、現代でも繰り返されている嫁、養子いじめを思わずにはおれません。
皇室が今後も存続してゆくためには、もっと開かれた皇室にするか、逆に一切を閉ざし、神秘のベールにつつむしかないでしょう。現状のまま、ということは無いでしょう。
開かれた皇室をめざすなら、このような偏見からは脱却すべきでしょう。
もしも女帝を認めることになれば、独身を強いることは人道的におかしいですから、当然配偶者を迎えることになります。皇后、皇太子妃ですらバッシングを受けたことを考えたとき、未来の女帝に誰が配偶者となっても今以上のバッシングが起こらないとは言い切れません。
一体、皇室の存続を本気で望んでいる人がどれくらいいるのでしょうか? 女系反対の国会議員連盟が立ち上がるとも噂されています。

私はどちらでもよいのです。
男系継承にこだわるのも一理あるし、女系を認めるのも筋が通っています。
あるいは今上天皇と皇太子の代で皇室を終わらせる、自然消滅の形になってしまってもやむをえないかな、とも思います。

なにせ皇室の存続を望むのはあくまで周囲の希望、思惑なのですから。
(たとえ当事者たちが望んでいても、あるいは望んでいなくても発言はできないのですが)


あわれ、斉荘。彼のような境遇の人がいなくならない限り、彼の悲劇は終わらないのです。


斉荘は茶人として名高く、教養豊かな人だったそうです。政治的には殆ど語られませんが、文化的には特出した存在でした。
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by fouche1792 | 2005-11-04 16:05 | 尾張徳川十七代