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江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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11代 徳川斉温  一度も名古屋に来なかったお坊ちゃま藩主

11代 徳川斉温  一度も名古屋に来なかったお坊ちゃま藩主_e0075643_0514826.jpg

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斉朝の後を継いだのは将軍家斉の19男、斉温(なりはる)
9歳で藩主となり、21歳までの12年間一度もお国入り(参勤交代で、自分の領国に入ること)なく、江戸で死去。

先代の斉朝もそうでしたが、この斉温も、それに引き続く養子たちも影が薄い。他の藩主と比べ、残っている逸話が少ないのです。やはり「押し付け養子」として、当時から今に至るまであまり人気が無いからなのでしょうか。
この頃になると封建制の矛盾はもうどうしようもなくなってきていて、尾張藩でも慢性的な財政難に陥っていました。藩は領民たちに厳しい倹約令を出します。それがぜいたく品の使用を禁じるものであったので、領民たちの反感を買いました。宗春ならわかっていたでしょうが、ぜいたく品を禁じ、代わりに粗末なものを使え、では逆効果。質素な身なりをするのにお金がかかる、という馬鹿らしい現象を招くからです。また倹約、倹約では経済が沈滞してしまいます。
こうした社会の変化と時期が重なってしまったのも彼らの不運かもしれません。
彼らとて自ら望んで養子に来たわけではないでしょう。生れ落ちるところを望んだわけではないでしょう。
それでもこの斉温には感心できないところがあります。

まず、一度も名古屋に来なかったこと。幼少のときはともかく、自分で判断できる年齢になっても動こうとしなかった。重臣や近臣たちがそうさせたのかもしれませんが。おかげでますます藩士、領民との距離が広がってしまいました。
加えて彼には困った趣味がありました。彼はハトが大好きだったのです。それこそ何百羽というハトを飼育し、専任の役人まで任命しました。ただでさえ財政難にあえぐ藩士領民たちを尻目に、莫大なお金をかけて飼育し続けたのです。その費用をめぐって不正が起きたこともあり、人々の心はますます離れていきました。

政治そっちのけで動物をかわいがるというと、五代将軍綱吉が有名ですが、彼の生類憐みの令には人命尊重もうたわれており、戦国の遺風を振り払う意味も込められていました。一口に悪法と断じきれない内容を含んでいました。
むしろ鶴を愛し、大臣にまで任命したという春秋時代(BC770~BC403)前期の君主懿公(いこう:在位BC669~BC660)によく似ています。衛が侵略されたとき、兵も国民もこの殿様を見捨てたといいますが、無理もないでしょうね。
斉温は平和な時代に生を受けただけまだ幸せだったのでしょう。

斉温にとって尾張藩とは何だったのでしょうか。
21歳で死んだのですから体は余り丈夫ではなかったでしょう。将軍の公子とはいえ、望まれぬ養子ということで周囲も冷ややかだったのかもしれません。
彼がハトに熱中したのは単なるバカ殿の道楽なのか、それとも孤独のなせる業だったのか。真相は既に土の下です。
by fouche1792 | 2005-11-02 00:56 | 尾張徳川十七代