江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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10代 徳川斉朝   押し付け養子  紀伊家・水戸家の場合

家斉の押し付け養子は血統が絶えた尾張家だけでなく、紀伊家、水戸家でもありました。

紀伊家では11代斉順(なりゆき)、12代斉彊(なりかつ)。そして斉順の子13代慶福(よしとみ)は将軍家に戻り、14代将軍家茂(いえもち)となります。
紀伊家の場合は「将軍家のお里は紀伊である」という意識が強く、迎え入れる側もさほど抵抗は無かったそうです。8代藩主重倫(しげのり)、この人は早くに引退させられ、「大殿」と称されながら84歳まで生きていた人ですが、彼は斉順を見て、吉宗によく似ていると喜んだそうです。


水戸家では8代斉脩(なりのぶ)が子供無く病弱であったため、その後に家斉の子を押し付けられそうになりました。水戸側でも幕府に迎合するもの―主に保守派の重臣たちがいて、斉脩には弟がいるが、まともに生活のできない人間で後を継ぐことができない、是非家斉の子供を養子にしたい、と言ってきました。
これに憤慨した藤田東湖(ふじた・とうこ)を中心とする改革派たちが斉脩死後、藩の禁を犯して無断で江戸へ急行し、弟襲封のため奔走しました。下士・農民ら数百人もこれに続き、関所で押しとどめられ、そのまま待機。
斉脩には遺言があり、弟にあとを継がせるとあったため事は収まりました。
この弟、保守派重臣たちに暗愚であるとされた人物こそ、徳川斉昭(なりあき)、烈公と称され藩政改革を断行し、幕末の政局に大きな影響を与えた人物です。最後の将軍、慶喜(よしのぶ)はこの斉昭の7男にあたります。


水戸家よりもプライドの高かった尾張家のこと。押し付け養子はできることなら拒否したかったでしょう。
ですが水戸家と異なり、宗家も分家も血統が断絶していたことで養子を受け入れざるを得ず、幕府に対する反感も表に出せない分だけたまってゆきました。

名古屋人は中央に対する反骨精神はあるものの、普段はお上に従順であるとされています。
名古屋の特色である広い道路網――代表的なものは「百メーター道路」と呼ばれています――もそのあらわれ。戦後焼け野原になった名古屋に、人家の前にまず道路を作り上げた当時の人々の先見の明もありますが、道路を作るから立ち退いてくれ、との指示に素直に従った人が多かったのも事実。

各所のお墓を集めた平和公園もそうですね。お墓の引越しまでしてるんです。


こうしたお上に対する従順さは、この江戸後期に培われたとの説があります。


尾張家10代斉朝(なりとも)は8歳~35歳まで、27年間藩主の座にありました。子供は無く、将軍家斉の19男斉温(なりはる)に後を譲りました。引退後は名古屋に屋敷を構え、1850年、58歳で死去するまで終生名古屋で過ごしました。
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by fouche1792 | 2005-10-31 17:12 | 尾張徳川十七代