江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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番外 徳川治休と徳川治行  幻の10代藩主

9代藩主徳川宗睦(むねちか)の世子、治休(はるよし)。彼にはこんなエピソードが残っています。

ある日治休がとある村を通りかかった所、悲しい顔をした男がいて言うには、子どもが病気で困っているとのこと。治休は自ら携帯していた高価な薬を与えたそうです。
この話には後日談がありまして、先日申しましたように治休は父に先立って、21歳の若さでなくなったのですが、深い悲しみにつつまれた城下に一人の男がやって来ました。なぜ皆が悲しんでいるのか聞き、治休が亡くなったことを知ると、声を上げて泣き出しました。この男こそ先年治休に子どもを助けてもらった者なのです。哀れな男は立ち上がろうにも立ち上がれず、悲しみのあまり腰を抜かして、馬の背に乗せられて帰っていったそうです。

現代の我々からすればなんでもない行為に見えますが、少なくとも残酷な領主、気まぐれな労主ではなかったようです。治休は優しい若者だったのですね。その優しさは細井平洲の影響もあったのでしょうか。


一方の治行は柳生新陰流第十二世伝承者となっております。
この柳生新陰流は、柳生石舟斎の嫡統、いわゆる「尾張柳生」とよばれる剣の流派で、時代劇などで有名な柳生但馬守や柳生十兵衛ら「江戸柳生」はその分派であります。ややこしい書き方をしてしまいました。「尾張柳生」が本家で、「江戸柳生」は分家なのです。
柳生兵庫助が尾張藩祖義直に仕え、指南役となって以来、柳生家当主と尾張家が交互に伝承してゆくことになりました。特に2代藩主光友の剣技は優れ、殿さま芸の域を脱し、伝承者たるにふさわしいものだったと言います。
治行は尾張家歴代の中で唯一藩主になっていない伝承者でした。
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by fouche1792 | 2005-10-27 02:43 | 尾張徳川十七代