江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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番外 藩祖義直の血統をたずねて

◆図はそれぞれクリックしていただくと、拡大され見やすくなります◆

最初にお断りを

私はよく家系図を掲げております。眺めるのも作成するのも好きです。
だからといって、私は氏や血統を最上のものとしているわけではありません。
いわゆる権威主義者ではありません。
人間皆平等に、万系一世ホモ・サピエンスの子孫。先祖が偉いからといってその人の価値はきまりませぬ。

近代以前においては血統は重要視されておりました。
江戸中期以降ともなれば、大名家においては特に変人でない限り、血がつながっていればよい、藩主が存在しておればよい、という状況でした。

一部の武家や商家では事情が異なります。
当主がぼんくらであれば家(店)がつぶれるのですから。
なので特に商家では婿取りが盛んだったそうです。婿であれば優秀な人材が選べますものね。

尾張徳川家において藩祖義直の血統が途絶えたことはかなり深刻な事態でした。
しかも跡を継いだのが紀伊系、吉宗の血筋のものたち。

現代皇室の継承が問題になっていますが、江戸後半の尾張家のケースは一つの参考になると思います。
簡単に言えば尾張の士民はがっかりしました。
養子に対する目も冷ややか。その上、彼ら養子の時代は封建社会の矛盾がどうしようもならない所まできており、藩財政はかなり苦しいものでした。
かんじんの養子たちは、というと、これがいずれもぱっとしません。詳しくは今後書いてゆきますが、居ても居なくても同じ人物が多かったのです。
尾張の士民はますますがっかりしました。

当の養子たちにとっては理不尽な話かもしれません。好きでその家に生まれたわけではなく、好きで尾張家に養子に来たわけでもないのですから。

そう遠くない未来、皇室の直系男子は途絶えます。
女系継承になるにせよ、傍系継承になるにせよ、シビアな目で見てしまう人が出てくるでしょう。
しかし、その方とて好きでその家に生まれてきたわけでもなく、好きで継承するわけでもないでしょう。現代は江戸時代ではないのですから、あまりシビアな目で見たくはないものです。


さて、義直の血統は尾張藩では九代宗睦(むねちか)、支藩の高須藩では七代の勝当(かつまさ)で途絶えました。
では本当に義直の血統は永遠に失われてしまったのでしょうか。

二代藩主光友(みつとも)には沢山の子女がいました。
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男子3人に分家を立てさせたことは以前に申しました。
彼らの家系は高須藩を含め、いずれも血統が途絶えています。
しかし、娘の貴姫が広島藩主浅野綱長に嫁ぎ子をもうけていますので、ここに義直の血統が続いているわけです。

三代藩主綱誠(つなのぶ)は歴代最多の38人の子どもがいましたが、育ったのは6名だけでした。
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彼らの中で、4代藩主吉通(よしみち)の娘、千姫が摂家九条家に嫁ぎ、子孫を残しています。

八代藩主宗勝も子沢山な人でした。
以前にもお話しましたが、彼の子女は高級家臣や大名家の養子になったり、嫁になったりしました。
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やはり九条家に嫁いだ恭姫と、付家老竹腰家の養子になった勝起が子孫を今に残しています。


養子先、嫁ぎ先を見ると結構残っているものですね。
彼らが尾張藩を継承できなかったのは、何より将軍家に遠慮してのことでした。
紀伊系の養子とはいえ、同じ徳川という氏(うじ)、そして幕府の意向があったのです。

血統と継承は微妙に次元の異なる問題です。
血統が続いているのであれば、男系でも女系でも条件は等しい。しかし、一旦他家へ出て行ったものは、氏がことなるのですから、出戻りというわけにはなかなか行かなかったのです。

吉良義央(よしなか:上野介)の息子が上杉綱憲となって上杉家を継ぐことができたのは母親が上杉の出ということと、何より上杉家に男子がいなかったからでした。
秋月藩から養子に来た上杉治憲(はるのり:鷹山)も同じです。

そして江戸後期になると、十一代将軍家斉の55人も子どもの受け入れ先に、血統のつながりなどお構いなしに、各大名家に押し付け養子がなされたのです。
その一番の被害にあったのが尾張家でした。
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by fouche1792 | 2005-10-25 23:25 | 尾張徳川十七代