8代 徳川宗勝 宝暦治水3
2005年 10月 17日
1754年(宝暦4年)1月、鹿児島を出立した平田靱負(ひらたゆきえ)は大坂に立ち寄り、金策に奔走します。しかしすでに60万両(約600億~1200億円)を上回る借金がある薩摩藩に対し、はいそうですか、と貸してくれる商人が居るわけがありません。
「何も我々が浪費するのではない。
水害に苦しむ人々を救うために必要な金なのだ」
必死の説得にも商人たちは首を縦に振りません。
現代のように税金をあまねく徴収して、必要性の不確かな工事までやってしまうどこかのお役所には想像もつかない苦難でしょうね。
担保を要求する商人に対し、平田は独断で薩摩藩の専売品、砂糖を担保として差し出すことを約束し、なんとか7万両(約80億~140億円)を借りることに成功したのでした。
ちなみに当時砂糖はめったなことでは庶民の口に入らない高級品で、白砂糖などは薬として扱われていたほど、希少品でした。
1754年2月、薩摩藩士750名は美濃(岐阜県南部)に到着。工事に取り掛かります。
しかし平田の言葉通り工事は難航を極めました。
特に幕府の嫌がらせは大変なもので、故郷から遠く離れた見知らぬ土地で、慣れない重労働にあえぐ藩士たちに対し、地元民に
「一汁一菜のほか提供するな」
「薩摩藩士たちが求める品々は、必ず現金を受け取ってからわたすように」
など厳しいお達しを出しました。
時には工事の妨害まであったといいます。
薩摩藩など国内の諸大名をを仮想敵とし、ここぞとばかりに痛めつける。この幕府の
狭い了見にはあきれてものが言えません。
軍事政権であったはずの幕府が19世紀の欧米列強の外圧に対抗できなかったのも当然でしょう。
悪天候と疫病、それに幕府の嫌がらせに、激高し自害する藩士も出ました。
それら悪条件にめげず、1755年5月、1年2ヶ月かけて工事は完成します。その出来栄えは見事なもので、あれほど妨害をした役人たちも言葉が出なかったといいます。
工事に参加した人数は薩摩藩から947人。雇った人数を加えると2000人以上。工事範囲は180ケ村に及びました。費用は全体で40万両(約450億~800億円)以上もかかったそうです。
薩摩藩士の犠牲は
割腹 52名 病死 33名
そして5月25日早朝、総奉行の平田靱負も責任を取って自刃。
住みなれし 里も今更 名残にて
立ちぞわづらふ 美濃の大牧
享年55歳。
藩主島津重年はもともとからだが弱かったところに、遠い地で苦労する藩士を思いやるあまりり病にかかり、平田の死も病床で聞きました。そして程なく死去。
こうして多くの犠牲を出して宝暦治水工事は終わりました。
尾張、美濃、伊勢。濃尾三川沿岸の人々は薩摩藩士たちに深く感謝し、治水神社を建て、「薩摩義士」たちを祭りました。
その薩摩義士たちが故郷を思って植えた松が今でも千本松原として残っています。
この薩摩義士たちの行いと、その歴史を子供たちに伝える学校教育を思うとき、歴史教育の素晴らしさを感じずにはおれません。
私も小学校4年生で平田靱負と千本松原のことを学びました。
「ゆきえって女みたいな名前だがね」
なんて軽口をたたきながらも、自らの命までかけて「同じ日本の民だから」とわれわれの地域を助けてくれた行為に畏敬の念を抱きました。
「同じ日本の民だから」
平田はそういいましたが、あの時代ではむしろ稀有な考え方でしょう。尾張は尾張、薩摩は薩摩。それぞれの国(江戸時代までの、日本に60以上あった国。今の県に相当)のことは考えられても、国の枠を超えて意識できるなんて、現代でいえば国際的感覚といってもいいでしょう。
私はここにもう一つ、尾張と薩摩、不幸な歴史を持った両者の歴史共有のあり方を見て、今なお多くの人の心を痛めている日中朝韓の歴史共有の可能性を感じるのです。
自虐史観でもなく、皇国史観でもなく、お互いに尊敬と感謝の念を持った、歴史共有のあり方を。
「何も我々が浪費するのではない。
水害に苦しむ人々を救うために必要な金なのだ」
必死の説得にも商人たちは首を縦に振りません。
現代のように税金をあまねく徴収して、必要性の不確かな工事までやってしまうどこかのお役所には想像もつかない苦難でしょうね。
担保を要求する商人に対し、平田は独断で薩摩藩の専売品、砂糖を担保として差し出すことを約束し、なんとか7万両(約80億~140億円)を借りることに成功したのでした。
ちなみに当時砂糖はめったなことでは庶民の口に入らない高級品で、白砂糖などは薬として扱われていたほど、希少品でした。
1754年2月、薩摩藩士750名は美濃(岐阜県南部)に到着。工事に取り掛かります。
しかし平田の言葉通り工事は難航を極めました。
特に幕府の嫌がらせは大変なもので、故郷から遠く離れた見知らぬ土地で、慣れない重労働にあえぐ藩士たちに対し、地元民に
「一汁一菜のほか提供するな」
「薩摩藩士たちが求める品々は、必ず現金を受け取ってからわたすように」
など厳しいお達しを出しました。
時には工事の妨害まであったといいます。
薩摩藩など国内の諸大名をを仮想敵とし、ここぞとばかりに痛めつける。この幕府の
狭い了見にはあきれてものが言えません。
軍事政権であったはずの幕府が19世紀の欧米列強の外圧に対抗できなかったのも当然でしょう。
悪天候と疫病、それに幕府の嫌がらせに、激高し自害する藩士も出ました。
それら悪条件にめげず、1755年5月、1年2ヶ月かけて工事は完成します。その出来栄えは見事なもので、あれほど妨害をした役人たちも言葉が出なかったといいます。
工事に参加した人数は薩摩藩から947人。雇った人数を加えると2000人以上。工事範囲は180ケ村に及びました。費用は全体で40万両(約450億~800億円)以上もかかったそうです。
薩摩藩士の犠牲は
割腹 52名 病死 33名
そして5月25日早朝、総奉行の平田靱負も責任を取って自刃。
住みなれし 里も今更 名残にて
立ちぞわづらふ 美濃の大牧
享年55歳。
藩主島津重年はもともとからだが弱かったところに、遠い地で苦労する藩士を思いやるあまりり病にかかり、平田の死も病床で聞きました。そして程なく死去。
こうして多くの犠牲を出して宝暦治水工事は終わりました。
尾張、美濃、伊勢。濃尾三川沿岸の人々は薩摩藩士たちに深く感謝し、治水神社を建て、「薩摩義士」たちを祭りました。
その薩摩義士たちが故郷を思って植えた松が今でも千本松原として残っています。
この薩摩義士たちの行いと、その歴史を子供たちに伝える学校教育を思うとき、歴史教育の素晴らしさを感じずにはおれません。
私も小学校4年生で平田靱負と千本松原のことを学びました。
「ゆきえって女みたいな名前だがね」
なんて軽口をたたきながらも、自らの命までかけて「同じ日本の民だから」とわれわれの地域を助けてくれた行為に畏敬の念を抱きました。
「同じ日本の民だから」
平田はそういいましたが、あの時代ではむしろ稀有な考え方でしょう。尾張は尾張、薩摩は薩摩。それぞれの国(江戸時代までの、日本に60以上あった国。今の県に相当)のことは考えられても、国の枠を超えて意識できるなんて、現代でいえば国際的感覚といってもいいでしょう。
私はここにもう一つ、尾張と薩摩、不幸な歴史を持った両者の歴史共有のあり方を見て、今なお多くの人の心を痛めている日中朝韓の歴史共有の可能性を感じるのです。
自虐史観でもなく、皇国史観でもなく、お互いに尊敬と感謝の念を持った、歴史共有のあり方を。
by fouche1792
| 2005-10-17 15:50
| 尾張徳川十七代