江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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8代 徳川宗勝  宝暦治水2

1753年(宝暦3年)12月25日。江戸幕府は木曽三川治水お手伝い普請を薩摩藩島津家に命じました。


木曽三川――木曽川長良川揖斐川、濃尾平野を流れる三つの大河は伊勢湾上流で、200を越える支流が網の目のように絡み合い、流れていたそうです。ひとたび大雨になるやその被害は甚大でした。
その治水工事を、木曽三川から1200km以上も離れた、縁もゆかりもない薩摩藩に命じたのです。
いうまでもなくこれは幕府の嫌がらせで、薩摩藩の弱体化をねらったものでした。
参勤交代で痛めつけられ、数度の縁組で散財させられてなおこのような仕打ちに会わねばならぬとは。
このとき既に薩摩には60万両(約600~1200億円!)を超える借金がありました。治水工事をすればさらに借金が増えることは目に見えています。しかも工事をするのは、まったく縁もゆかりもない土地なのです。まさしく薩摩藩存亡の危機でした。


勇猛で鳴らした薩摩隼人たちは憤慨し、

「幕府と一戦を交える覚悟で辞退すべし」

「いや、幕命に逆らい、お家をつぶすことは不忠」

と激論を戦わせます。武士の意地を貫き通すか、お家大事で忍耐するか。議論は堂々巡りするばかり。
その場をまとめたのは家老平田靱負(ひらたゆきえ)の言葉でした。


「幕命にそむけば幕府との戦、命に従えば大自然との戦。
どちらにせよ命がけの戦になるだろう。どうせ命をかけるなら、断ってお家を滅ぼすよりは、従ってお家存続を図ろう。
遠く離れているとはいえ、同じ日本国ではないか。水害で苦しんでいる美濃(岐阜県)の人々を救い、薩摩魂を見せつけてやろうではないか

藩論は統一され、平田が工事責任者として美濃へ出発することになりました。
時に平田靱負50歳。

宝暦治水工事は彼の言葉通り、命がけの戦いとなるのでした。
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by fouche1792 | 2005-10-15 21:10 | 尾張徳川十七代