江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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8代 徳川宗勝  宝暦治水1

宝暦治水の話にゆく前に、宗勝の子供たちの養子先、嫁ぎ先を系図にまとめました。
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公家の九条家浅野上杉といった大身の外様大名と縁付きになったことが分かります。

ただ、島津家とだけは縁がなかったようで、島津宗信の許婚、房姫は婚姻なる前に17歳で亡くなってしまいました。

また、浅野重晟(しげあきら)室となった邦姫も、はじめは島津氏に嫁ぐ予定でしたが、今度は宗信が婚姻前に亡くなってこれもボツ。

これで島津と徳川の縁がうすくなり、宝暦治水の遠因となるのです。


江戸幕府とは世界史上類を見ない奇妙な政権でした。

内政と外交、貿易を一手に引き受けながら、その長は今で言う国家元首ではありません。征夷大将軍とは天皇より任命される役職でしたから、実質日本国王となっても、形式上は朝廷の臣下でした。

また諸藩の内政には不干渉でしたが、全国レベルの行政を行いながら、その収入は自分の領地(天領)より上がる年貢を主とし、他の大名やその領民から税をとる権限はありませんでした。(吉宗時代の一時期、「上げ米」と称して1万石あたり100石を上納させましたが、これは一時の例外で、期間も8年と短いものでした)

自領のみの収入で全国の行政サービス、インフラ整備をしなければならない。

ただでさえ赤字の幕府財政、まともに対処していたらペリー来航を待たずして幕府は崩壊していたでしょう。

それゆえ幕府はしばしば「お手伝い普請」として、諸大名にそれらを実施させました。諸大名にしたらたまったものではありません。こちらもただでさえ苦しい財政事情なのに、縁もゆかりもない土地の普請や治水工事をさせられるのですから。

それゆえ諸大名は競って幕府閣僚に取り入り、情報網を張り巡らし、なんとか「お手伝い普請」を免れるよう努力をしたのです。諸藩江戸屋敷、江戸家老の大きな役割は実にこの一事でした。


薩摩藩島津家は常に幕府の仮想敵国として、厳しい警戒の目を向けられていました。

一方で何とかして縁付きになろうと、政略結婚も盛んでした。


5代将軍綱吉の養女竹姫が改めて吉宗の養女となり嫁いだのは5代藩主、島津継豊。しかしこれは半ば強引に押し付けられたといってよく、継豊には既に嫡男宗信がおりましたし、竹姫も当時26歳、この時代ではすでに薹が立っておりました。さらに彼女には吉宗が想いを寄せていたらしいと、なかなかいわく付の女性でありました。

そのため、島津側は竹姫に男子が生まれても後継にはしない、という条件をつけました。

そんなこんなでやっと実現した竹姫の婚姻ですが、まがりなりにも将軍家の姫君を迎えるのですから、島津側の出費は大変なものでした。


そんないきさつがあったものですから、尾張家との婚姻が成り立たなかったことに胸をなでおろす家臣もいたとか。しかしこれが後々大きなツケとなって島津家に襲い掛かるのです。
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by fouche1792 | 2005-10-14 11:36 | 尾張徳川十七代