江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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番外 松平通温

徳川宗春には松平通温(みちまさ)という同年齢、5ヶ月年上の異母兄がいました。

ちなみに御三家の当主、嫡男は徳川を名乗りますが、庶子はみな松平を姓とします。宗春も家督を継ぐまでは松平通春(みちはる)と名乗っていました。通春、通温の「通」は兄である4代藩主徳川吉通(よしみち)の「通」です。(詳しくは「大名の名前について」を参照してください)

この通温、「尾張家御系譜」によれば、宗春と同じく名古屋で生まれ、江戸下向、将軍へのお目見え、官位の任官などは常に宗春より1年先んじています。
同じ庶子とはいえ、長幼の順は歴然としていました。
二人の境遇が逆転するのは享保3年(1718)、吉宗が将軍になって3年目のことです。

「御系譜」には

「四月二十三日御病気に依りお登り(江戸から京都方面へ出立すること)、この年より尾州御住居。」

そしてその次に

「享保十五年(1730)五月十九日尾州に於いて御卒去。御年三十五」

とのみ記され、どんな病気だったのか、なぜ尾張に戻らねばならなかったのか、そしてなぜ10年以上も尾張にいたのか、何も語っておりません。

「御系譜」作者には主筋に連なる人ですから、書けなかったのでしょう。



通温は憤死したそうです。

将軍位を巡る争いで尾張家が紀伊家に敗れたとき、最も悲憤慷慨したのがこの通温でした。その憤りが体を壊し、ついに名古屋に蟄居になり、兄継友(つぐとも)が死去する半年ほど前にこの世を去りました。

宗春は剛毅な、そして同時に心の細やかな人物でしたが、兄弟にもなかなか剛毅な人物がいたようです。

後年この通温の憤死と継友の病死が混同され、

「尾張家の継友は将軍家を恨んで憤死した」

「いや、将軍家に毒殺されたのだ」

という憶測が生まれたのでした。



数々の不幸が宗春を檜舞台に押し上げました。
時は元禄の高成長再びをまだ夢見る人も多い享保の世。ライバルは徳川中興の英主、吉宗。
名古屋と江戸を舞台に輝かしいドラマが幕を開けようとしていました。
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by fouche1792 | 2005-10-10 04:10 | 尾張徳川十七代