江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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四谷松平家(高須藩)

尾張藩9代藩主徳川宗勝(むねかつ)四谷松平家の出身です。
ここで四谷松平家のご紹介をしましょう。

尾張藩2代藩主光友(みつとも)には何名かの男子がいました。彼は将来のことを考えて三つの分家を作りました。それらの家は江戸にあった屋敷の所在地をとって、大久保松平家、四谷松平家、川田久保松平家と呼ばれるようになりました(御三家の当主と嫡子以外は皆松平の姓を名乗りました)。ちなみに御三家の分家を御連枝と呼びます。

四谷松平家
3代藩主綱誠(つななり)の同母弟、すなわち将軍家光の長女千代姫の息子、義行の家系。後に美濃(岐阜県南部)高須にて3万石の大名となったので、一般には高須松平家と呼ばれています。分家の中で唯一幕末まで続きました。

大久保松平家
光友の長男でありながら母が側室のため、三男とされた義昌(よしまさ)の家系。奥州柳川(現福島県)で三万石を領しました。この家系は三代で断絶。その後を松平通春(みちはる)が継ぎましたが、通春が尾張家を継ぎ宗春となると跡継ぎはなく完全に断絶しました。

川田久保松平家
光友の11男、友著(ともあき)の家系で、その子友淳(ともあつ)が高須松平家を継いだために二代で絶家となりました。


↓画像はクリックしていただくと、拡大され見やすくなります。
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初代 義行(よしゆき) 1656-1715 (在位1700-1708 以下同)
綱誠死後、幼少の吉通(よしみち)をよく補佐した。

二代 義孝(よしたか) 1694-1732 (1708-1732)
義行には武雅(たけまさ)という子がいたが、六代将軍家宣の弟、松平清武の養子となったので、兄綱誠の子義孝が高須藩二代藩主となった。

三代 義淳(よしあつ)  1705-1761 (1732-1739)
尾張家の分家、川田久保松平友著(ともあき)の子。
1739年、徳川宗春の後継となり、尾張家八代徳川宗勝となる。

四代 義敏(よしとし)  1734-1771(1739-1771)

五代 義柄(よしえ)  1760-1793 (1771-1777)
1777年に尾張家九代宗睦(むねちか)の養子となり、徳川治行と改名。
しかし襲封前に死去。

六代 義裕(よしひろ) 1762-1795(1777-1795)

七代 勝当(かつまさ) 1737-1801(1795-1801)
宗勝の子。
嗣子無く、一橋家より養子義居を迎え、ここに義直(尾張藩祖)の血統が断絶した。

八代 義居(よしすえ) 1785-1804(1801-1804)
一橋家徳川治済(はるずみ)の子。すなわち11代将軍家斉の弟。

九代 義和(よしかず) 1776-1832(1804-1832)
水戸徳川治保の子。すなわち烈公斉昭の兄弟。

十代 義建(よしたつ) 1799-1862(1832-1850)
義建は教育熱心で、その子供たちは早世した者を除き皆大名となった。
 徳川慶勝
 二男 第十四代尾張藩主となる
 松平武成
 三男 石見濱田藩松平右近将監武楊の養子となる。 
 松平義比(徳川茂徳)
 五男 第十一代高須藩主となる。その後第十五代尾張藩主に。
 松平容保
 六男 会津藩主松平肥後守容敬の養子となる。後に京都守護職。
 松平定敬
 七男 桑名藩主、松平越中守定猷の養子となる。後に京都所司代。
 松平義勇
 九男 第十三代高須藩主となる
特に慶勝、茂徳、容保、定敬の4人は幕末の政局で活躍をしたので「高須四兄弟」と呼ばれている。

十二代 義比(よしちか) 1831-1884(1850-1858)
 1858年、兄慶勝が井伊直弼より隠居謹慎を命ぜられ、その後を受けて十五代尾張藩主となる。
 1866年、将軍慶喜の後を受け、一橋家を相続。茂栄(もちひで)と改名。

十二代 義端(よしまさ) 1858-1860(1858-1860)

十三代 義勇(よしたけ) 1859-1891(1860-1869)

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by fouche1792 | 2005-10-12 12:06 | 尾張徳川十七代