江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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7代 徳川宗春  「名古屋心中」

さて、6代継友(つづとも)を語った後は7代の宗春(むねはる)になるのですが、宗春の業績ついては以前に述べましたので、今回は以前紹介できなかったエピソードを書きます。


享保十八(1733)年11月、宗春が藩主となって3年目のこと。
闇の森(くらがりのもり)八幡社境内(現名古屋市中区)で心中未遂事件がありました。
事件を起こしたのは遊女・小さんと出入りの畳屋・喜八。

喜八は遊女屋に通ううちに小さんとなじみとなり、夫婦の約束まで交わすようになりました。

しかし周囲がそれを認めるわけはありません。そこで心中を思い立ったのでした。

封建時代の男女の恋愛は非常に窮屈で、身分の壁、年齢の壁、さまざまな障害を乗り越えなければなりませんでした。もちろん、当時の結婚は家同士の結びつきですから、当人同士の気持ちなど二の次、三の次。当時(江戸~明治)の「姦通」は、今の「不倫」とは大きく異なっておりました。

「姦通」というと響きが悪いですが、上記のような男女の事情ですから、誠に純なものが多かったそうです。

そして現世で添い遂げられる望みがなければ来世でと、「心中」をいたします。


<*私は「心中」という行為自体を賞賛しているわけではありません。当時の人の考え方を紹介しているだけです。個人的には心中は「逃げ」だと思います。>


お上はこのような「風紀の乱れ」には敏感です。特に時は文武を奨励した吉宗の世。
幕府は享保7年(1722)・翌年と心中禁止令を出しましたが、その条文のなかで「心中」という言葉自体を不当なものとして代わりに「相対死」という言葉を用いています。
なぜなら「心中」は武士の動議である「忠」を分解した言葉。主君に対する愛を貫く忠に対して、男女の愛を貫く町人の意地を表した言葉だからです。
吉宗の時代には、それまで大坂周辺で続発していた心中は、江戸へも飛び火して流行のようになっていました。吉宗は、心中した者を

「人間の行いではない」、「動物と同じ」、「死んだものは丸裸にして、野外に捨て置け」

と言ったそうです。


当然心中未遂も重罪で、両方が生き残った場合、生き延びた男女は3日間さらし者にされた上、身分を落とされました。

身分を落とされれば元の暮らしにも、元の家にも戻れません。もちろん添い遂げることもできませんでした。

さあ、宗春はこの心中未遂事件にどのように対処したでしょうか。


宗春は法の定めるとおり、二人を三日間のさらし者にしました。

ところが、この後が問題です。

三日間の処罰が過ぎた後、二人は許されて親元へ帰されたのです。

後に二人ははれて夫婦になり、男の子に恵まれたそうです。


この粋な計らいは評判を呼び、この辺りを通りかかった、豊後節の祖、宮古路豊後掾が浄瑠璃にまとめあげ、「名古屋心中」とよばれました。この浄瑠璃は名古屋だけでなく、江戸でも上演され、大ヒットしたそうです。

しかし、この「名古屋心中」も元文4(1739)年、宗春失脚の年に全面禁止となり、それ以後長い間上演されませんでした(2002年、260年ぶりに上演)。


不思議なのはそれまで上演が黙認されていたことです。

当時の江戸町奉行はあの大岡越前守忠相(ただすけ)。その大岡が「新作心中浄瑠璃禁止令」を出していたにもかかわらず、禁止されなかったのです。


人々はそこに宗春の影を見ました。

正直なところ、本当のことは分かっていません。

二人を許したのが宗春の計らいなのかも、陰ながら浄瑠璃を保護したのかも。

それでも普段の言動から、宗春をこの粋な計らいに結びつけることは容易なことでした。

宗春は庶民に愛された殿様だったのでしょう。
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by fouche1792 | 2005-10-07 12:06 | 尾張徳川十七代