江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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6代 徳川継友  8代将軍決定と不遇の後半生

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正徳6年(1716)4月30日、将軍家継が死去。後継者を巡り、幕閣、大奥も二派に別れました。
家継の母・月光院、側用人の間部詮房(まなべ・あきふさ)尾張継友(つぐとも)
6代将軍家宣の正妻・天英院と譜代大名たちは紀伊吉宗
それぞれ推しました。

結果は皆様ご存知のとおりです。吉宗がはれて8代将軍を継ぎました。

継友、及び尾張藩としては御三家筆頭であり、祖母が将軍家光の娘であることもあって、将軍になるのは当たり前と思っていたようです。そのため、これといった根回しも活動もしていませんでした。
対する紀伊家では前々から大奥・幕閣にもしっかり働きかけ、尾張家にも間者を放つなど努力を怠りませんでした。
何より綱吉の寵臣、柳沢吉保以来側用人の勢力拡大を恐れた譜代大名たちの支持を取り付けたことが大きかったようです。

公平に見れば経験豊富な吉宗がこの時期に将軍になったのは幕府にとっても日本にとっても幸運でした。
吉宗はこの後、いわゆる>「享保の改革」を推し進めていきますが、自分を支持してくれた譜代大名層やかつてのライバル尾張家に気を配ることは忘れていません。

もしも継友が将軍になっていたらそこまではできなかったでしょう。家督相続のときの行動を考えれば、他への気配りはあまり期待できそうにありません。
やはり若いときから苦労している吉宗にはかなわないでしょう。


この後継友は物価の高騰や名古屋大火など度重なる天災人災克服し、財政を再建。弟宗春の飛躍はゆたかな尾張の土地柄とこの兄あってのことでした。

1718年結婚。1722年には側室との間に男の子(八三郎)をもうけますが、翌年早世。さびしい家庭でした。
1730年、麻疹と思われる病気で死去。弟宗春に後を託しました。
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by fouche1792 | 2005-10-05 14:08 | 尾張徳川十七代