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江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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6代 徳川継友  吉宗のライバルだった男

1716(正徳6年、6月に享保と改元)年、将軍家継が数え年8歳で死去。当然子供はいません。ここで初めて御三家のいずれかが8代将軍になる可能性が出てきました。
1716年時点での尾張家、紀伊家の系図を掲げます。クリックすると見やすくなります。
6代 徳川継友  吉宗のライバルだった男_e0075643_16375163.jpg


このとき候補に挙がったのは尾張家6代の継友(つぐとも)25歳と紀伊家5代の吉宗35歳。
水戸家は御三家とは言え、家格が低いため、最初から候補には入っていませんでした。

継友は1713年に兄、甥の死により家督を継ぎ、倹約に努め財政回復を図っていましたが、吉宗と比べると見劣りがするのは事実。
何しろ部屋住みが長かったため、尾張家を継ぐことが決まったとたん、酒宴を始める始末。自分自身はめでたいとは言え、先々代、先代の死を考えれば顰蹙ものです。これには重臣たちもあきれたとか。どうも先々のことを深く考えない性格のようです。

軽率なことは事実としても、継友の身になれば分からないこともありません。
江戸時代、大名、武家の次男以下は血のスペアとしての存在でしかありません。男尊女卑で女性が貶められていた封建社会の中で、その女性よりも低い価値しかありませんでした。
女性なら他家に嫁ぐなり、側室になるなり、身を立てる道はいくつかありました。しかし大名の次男以下の男たちは分家するか、家臣となるか、他家に養子に行くか、そうでなければ「部屋住み」として生涯飼い殺しにされました。江戸中期ともなれば分家するにしても、家臣となるにしても、そんな経済的余裕などあるわけもなく、他家から養子の声がかかるようにせっせと文武に励むしかありません。
しかも継友の場合、実質上の次男(早世した兄弟を合わせれば11男)でしたので、「おひかえ」として他家に養子に行くことも許されませんでした。「おひかえ」とは嫡男が万一死んだときのためのスペアです。
系図をご覧になればお分かりのとおり、弟(義孝)が分家の養子となるのを指をくわえてみているしかありませんでした。
そして、部屋住みの間は結婚も許されません。結婚して子をなし、一家を構えればそれは分家ですから。

それが御三家筆頭の当主となったのです。しかも7代将軍家継は病弱でしたから、うまくいけば将軍になれるかもしれないのです。
おそらく継友はかなりハイになったのではないでしょうか。


一方の吉宗もこれまた幸運で紀伊藩主となった男です。
系図でもお分かりのとおり、父、兄たちが次々に死んで1705年に5代藩主となりました。
ただ宗の名前から分かるように、当時はまだ5代将軍綱の世。紀伊藩主となったからといえ、次は将軍になれる、という予想は全くつかなかったでしょう。家のときに尾張家を継いだ友との違いの一つです。
また当時の紀伊家は深刻な財政難で、手放しで藩主就任を喜べる状況ではありません。継友との違いの二つ目です。吉宗はその紀伊藩を引き受けてからは浮かれることなく、後の「享保の改革」の原点となった改革をしてゆきます。そして着実に成果を上げていきました。
吉宗が将軍と決まったときに一番がっかりしたのは尾張家でも、継友でもなく、紀伊の領民だったそうです。それほど吉宗は領民から慕われていたのでした。


1716年、家継が死んだ時点で吉宗は藩主就任10年、着実に実績を重ねていました。一方の継友は藩主就任3年、これといった実績もありませんでした。
それでも継友は自分が将軍になるものだと思っていました。
その根拠は何だったのでしょうか。


次回は「8代将軍決定と不遇の後半生」です。
by fouche1792 | 2005-10-04 16:37 | 尾張徳川十七代