江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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5代 徳川五郎太  2ヶ月在職した幼年藩主

<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>

五郎太(ごろうた)。この聞き慣れない名前は尾張徳川家代々の嫡男が名乗っていた幼名です(ちなみに将軍家嫡男の幼名はご存知竹千代)。

尾張徳川家初代、義直の幼名は初め千千代といいましたが、後に五郎太と改めました。城壁を築く時に楔(くざび)として打ち込む石を五郎太石(ごろたいし)といいます。石垣の大きな石と石の間につめます。家康は義直が天下の楔になるように、という願いを込めて五郎太と名付けたそうです。

尾張藩5代目藩主、五郎太は元服前に死去しましたので諱(いみな、本名)はありません。
1713年わずか2歳7ヶ月で家督を継ぎましたが2ヶ月で死去。当然子供はなく、6代目を継いだのは叔父の通顕(みちあき)。将軍家継より一字をもらい、名を継友(つぐとも)と改めます。時に22歳でした。

嫡流に生まれたために幼児であることお構いなしに家督を継がされた五郎太。
幕府・藩が安定してくると、将軍や藩主個人の力量よりも血筋の正しさが求められました。幼児であろうと存在さえしていれば藩は存続し、家臣の生活も安定するのです。将軍も殿様も「そこにいればいい」という飾りだけの存在となりました。

もしも五郎太が当主の座に着かなければ、いま少し長生きできたかもしれません。
もとより体の弱い子供だったので断言はできませんが、藩主として表に出ざるを得ない生活がこの子の命を縮めたのかもしれません。
それにしても藩主として、飾りとしてだけ存在していたのでは、この子の2年数ヶ月の一生は何だったのでしょうか。あまりにもかわいそうです。

それは7代将軍となった家継も同じでした。
家継は将軍位にあること4年、1716年、わずか8歳(数え年。満6歳9ヶ月)で世を去りました。

ここに8代将軍を巡って、尾張と紀伊、継友と吉宗の争いが始まったのです。
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by fouche1792 | 2005-10-03 14:54 | 尾張徳川十七代