江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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4代 徳川吉通  恋多き母と謎の死

<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>
吉通(よしみち)の名君ぶりも伝えておきましょう。
吉通は武にすぐれ、尾張柳生の九世伝承者でありました。
尾張柳生流とは柳生新陰流の正統継承流儀で、そのため、正伝柳生新陰流ともいいます。伝承者の中には時代小説でも有名な柳生兵庫助柳生連也斎などもいます。
ちなみにこれも時代小説のヒーローである柳生十兵衛は江戸柳生の剣士であり、尾張とは別系統となります。
もっとも吉通の伝承者継承は尾張藩主ゆえ、という見方もあります。が、いわゆる「殿さま芸」の域を脱していたことは確かです。

どうも先に述べた水練のことといい、大酒のみであったことといい、体力には自信があったようです。

その他儒学・国学・神道を修め、木曽山林政改革に取り組んだそうです(江戸時代、木曽の山林は尾張家のものでした)。
今の宮様同様、当時の殿様は学問に熱心でしたから、これだけでは名君とはいえないでしょう。また、木曽山林改革は叔父の松平義行の功でしょう。
でもこれを見る限り、少なくともバカ殿ではなさそうです。

では、先日述べたようなバカ殿ぶりは一体どうしたことでしょうか?
ここに吉通の母親、お福の方(3代綱誠(つなのぶ)死後は落飾して本寿院と呼ばれました)の悪影響がありました。

本寿院はよく言えば「情熱家」「享楽家」、ストレートに言えば性欲の強い人だったようで、綱誠死後、35歳で落飾して後も藩士や役者、出入りの町人たちを屋敷に引っ張り込み、あれこれと噂が立てられました。「千姫ご乱行」などのモデルになった女性です。
吉通はそんな母をかばい続けましたが、重臣に疎まれ、ついに母は藩邸に閉じ込められてしまいました。

藩主の生母でなければ別の生き方もあったのでしょうに。
西洋でもイングランド国王ヘンリー6世の母キャサリンは、結婚後2年足らずで夫(ヘンリー5世)に先立たた後、ずっと未亡人として再婚も許されませんでした。国王の母に悪い虫がついたら大変、と言うわけです。
それでもひそかに納戸役のオーエン・テューダーと結婚。ちなみにこの二人の子供の子孫がかのエリザベス処女王に連なるテューダー王朝になるのです。
キャサリンはまだ幸せでした。秘密裏とは言え、恋する人と結ばれたのですから。
哀れなのは本寿院です。『元禄御畳奉行の日記』、朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」によれば男を絶たれ、ノイローゼになった本寿院が屋敷内のもみの木につかまって、奇声を発したと言う噂まで書かれています。


そのような享楽的な母と、持ち上げることしか知らない側近の悪しき影響が名君たりえたかもしれない若者の心を蝕んでいったのでしょうか。

体だけは丈夫になった吉通の命を奪ったのは酒でした。
1713年、自分を後継にと考えてくれた将軍家宣の死の翌年のことでした。
享年25歳(数え年)。
別の史料では饅頭を食べて死んだと書かれています。
どちらにせよ、あまり格好のいい死に方ではありません。
ただこれも黒い噂があって、苦しみ出した吉通を、医師はおろおろするばかりで何の手当てもしなかったそうです。近臣たちも同様。わが身のことばかり考え、おろおろするばかり。あまつさえ、吉通が死んだとなるや、調度などを盗む始末。
一部の小説やドラマではこれを紀伊家の暗殺とするものもありますが、確かにそれも疑われるべき状況ではあります。ただ、吉通が死んでも、嫡子の五郎太がおり、弟たちも健在でしたから、そこまでの危険を冒したかどうか。いずれにせよ、真相は藪の中です。

こうして8代将軍に最も近かった男、吉通はあっけなく死んでしまいました。
後を継いだのは嫡子五郎太。わずか3歳でした。


次回はその五郎太のお話をいたしましょう。
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by fouche1792 | 2005-10-01 15:51 | 尾張徳川十七代