江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

7代 徳川宗春  消えた宗春

東海雑記にアップした記事を加筆訂正したものです>

隠居後、宗春は25年生きました。
それは失意の年月であり、幕府の厳しい制約を受けた年月でもありました。
1739年、江戸より木曽路を通って名古屋に到着。名護屋城三の丸内の屋敷に幽閉されます。名古屋への道中は誠に寂しいもので、道筋への近隣の男女の送迎も禁止されておりました。
そして幽閉中は親しんだ近習とも離れ、屋敷門も閉ざされ、父母の墓に詣でることすら禁止されました。

1751年、将軍吉宗死去。かつてのライバルの死を宗春がどのような気持ちで聞いたかは誰もわかりません。

1761年には父母の墓参りが許され、閉ざされたままの屋敷門が開放。隠居後初めて家臣と顔を合わせることもできました。
そんな喜びもつかの間。
1764年10月8日、宗春は69歳の波乱の生涯を閉じました。
時はすでに吉宗の孫10代将軍家治の治世。尾張家でも宗春の後を襲った8代宗勝はすでになく、その子、9代宗睦(むねちか)の時代でした。

人々にとって宗春の輝いた治世も夢のかなた。元藩主の訃報を聞いてあの時代を思い起こす人は、もはやまれでした。

しかし、幕府は依然宗春を許してはいなかったのです。
その証拠として、宗春の墓には罪人であるかのように、金網がかけられていたのです。
死してなお安息のない宗春。
死後75年たった1845年、ようやく金網がはずされ、歴代藩主と同じ待遇を得ることになるのですが、
これは当時反幕府感情を募らせていた尾張藩士民を宥めるためだったそうです。
最後の最後まで幕府に振り回された宗春でした。


宗春の業績はまだ分かっていないことがたくさんあります。
これは幕府と幕府に迎合した藩執政がその記録を消してしまったためだと言われています。
こうして人々の記憶から宗春は消えてゆきました。

時は下って昭和。
もはや宗春は歴史書にすこし記載されているか、時代小説で吉宗の失脚を企む悪役、(または善役)として描かれているかに過ぎなくなりました。

1980年代の初め、NHK名古屋で『あなたは宗春を知っていますか』という番組が放映されたことがあります。名古屋出身の俳優、森本レオさんを案内役として、宗春の業績を紹介した番組でした。
冒頭、町行く人々にこんな問いかけをしていました。
「あなたは宗春を知っていますか?」
知っている、と答えた人はなんとたったの1名。歴史通のおじいさんだけでした。

そして1995年。
大河ドラマ『吉宗』放映。このとき全国の人は宗春の存在を知ることとなりました。地元、名古屋の人々も。宗治は再び甦りました。
そして名古屋の人々に「中京の繁栄を築いた恩人」として語り継がれています。


高成長だった元禄の世を経て、低成長になった享保、元文期。しかしひとり名古屋だけが宗春の下で繁栄しました。
それまで質実剛健を旨とする尾張藩の治世下で蓄えられていた「豊かさ」が見事に開花したのです。もともと生産力の高い地方だっただけに、潜在的な活力は大変なものでした。
そんな時代に宗春のような君主を迎えたのはまさに天の采配と言うべきでしょうか。

しかし、その豊かさが宗春の政治家としての成長を妨げたことも事実です。
吉宗や後代の上杉鷹山が破綻した財政を引き継ぎ、苦労してゆく中で政治家として成長していったのに比べ、己の理想をすぐに実現できた宗春は、幸福だったのか、不幸だったのか。


愛・地球博でにぎわう町並みを眺めながら、大らかで優しい殿様のことを考えています。
[PR]
by fouche1792 | 2005-09-24 13:24 | 尾張徳川十七代