江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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7代 徳川宗春 華美の経済学

<この記事は東海雑記に書いたものを加筆修正したものです>

吉宗は最初、宗春と対立する気はありませんでした。
苦労人で現実家の吉宗です。紀伊家から将軍位を継いでより、老中をはじめ周囲の人間関係、ことに尾張家との関係には気を配ってきました。
むしろ宗春に対しては自分と同じ境遇――部屋住みから小藩の当主、更に三家の当主というシンデレラボーイぶり――に親しみを感じていたかもしれません。
また御三家の高い格式は将軍と言えどもうかつに手出しできないものでした。格式を軽んじれば、すなわちそれを定めた神君家康、ひいては自分の権威も軽んじることになるからです。

とはいえ、自分の政治を否定し、それが庶民の人気を得ている様は面白くありません。尾張領内ではともかく、将軍のお膝元である江戸での行動には流石に目をつぶることができなかった(あるいは許されなかった)のでしょう。
極秘に上使を遣わし、以下の三か条を詰問しました。

1.自領ではともかく、江戸において物見遊山するとはけしからん。他の大名へのしめしがつかぬ。
2.先日の嫡子万五郎の端午節句祝いに町人まで引き込むとは軽率ではないか。
3.日ごろより幕府の出している倹約令を無視しているのはなぜか。三家は幕府に準ずるのだから率先して模範を示すべきではないか。
  (註 内容を思い切り縮めて意訳してます)

対して宗春は

「三か条のお咎めは誠にごもっとも。深くお詫び申し上げる。これからは身を慎み、行跡を改め、倹約令も守るゆえ、どうかよろしく(将軍に)お伝え願いたい」

と素直に聞き入れました。
使いに立った旗本たちも一安心。
しかし、このままでは終わらないのが宗春です。

「御使い大儀であった。ところであちらに酒肴を用意しておる。ついでに世間のことを話したいので、ゆるゆると休息召されい」

と別室へ案内してから本音をぶちまけます。
これは将軍上意であれば、お受けしなければ間に立った使いの者たちが切腹する羽目になるからです。上意でありますから、反論なんてありえないのです。一旦は「ごもっとも」と受けた上で、あくまで世間話として、「いや、実はですね」と本論に移ったわけです。

1.物見遊山の件。自領ではよいが、江戸表では許さんという。他の大名の中にはそうしているものもいるだろう。しかし私はそういう表裏ある行動が嫌いなのだ。自領でもわがままを言って民を苦しめているわけではない。
2.端午の節句の件。軽率だと言うが、町人に見せてはならぬという令がいつ出されたのか。

そしていよいよ宗春の持論に移ります。

3.倹約令を守らないと言う。私は私なりに倹約をしているつもりだ。ただ、将軍家が倹約の根本をご存じないので、お分かりにならぬのだろう。

では宗春の言う「倹約」とは何でしょうか。

現代風に言い換えれば、こうです。
上に立つもの、幕府が倹約をし、それを下のものに強制するのは経済を沈滞させます。現代と異なり、幕府は納められた税を国民に還元することはまずありません。幕府の蓄財は文字通り金を蓄えること。我々で言う「タンス預金」に他なりません。
ですから領主個人の浪費でのみ、金は還元され、経済は活発になり、領地は富み栄えるのです。
いわば「華美の経済学」とでも申しましょうか。

宗春が浪費好きのバカ殿でないのは、彼の浪費が「確信犯」であるからです。もちろん生来の好みもあるのでしょうが。

なんとも鮮やかに反論を繰り広げたものです。
「世間話」とはいえ、当然、吉宗の耳にも入ることを計算して、しかも間に立ったものがお咎めを受けないように考えての行動です。
ここに私は宗春の吉宗に対する、ある種の信頼をさえ感じます。吉宗がぼんくらであればいくら私的な「世間話」とはいえ、激怒し、自分を含め関係者も無事ではすまないでしょう。
 吉宗ならそんなことはしないだろう
そこまで読んだ宗春は、暗に吉宗の英明さを認めていたのでしょう。


ところがこの後より宗春はだんだん窮地に追い込まれていきます。

宗春を追い込んでいったもの、さらに引退までさせたものは、吉宗でも紀伊家でもなく、皮肉にも自国の士民と家老たちでした。
あれほど領民に慕われ、崇められていたのに、どうしたわけでしょうか?

次回は「挫折と退陣」です。
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by fouche1792 | 2005-09-22 10:06 | 尾張徳川十七代