江戸時代に名古屋を治めていた、尾張徳川家の殿様たちのお話です.


by fouche1792
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7代 徳川宗春 その栄光

<この記事は平成17年2月19日に東海雑記で書いたものを加筆したものです>

宗春の政策は、単なる吉宗への反発、というものではありませんでした。
吉宗には「幕府財政の安定、強化」という目標がありましたし、宗春はその吉宗の政策を反面教師として「四民享楽」を目標としていました。両者ともそれぞれのポリシーがあったのです。

まず自身が奇抜なファッションで身を装い、人々の注目を集めます。藩士・領民に対して、「今までの殿様とは違うんだ」、「新しい政治が始まるのだ」というイメージを打ち出したのです。

次いで名古屋城下にそれまで禁じられていた遊郭の設置を認めました。
遊郭、というと不道徳なイメージがあります。もちろん、そういった面もありますが、娯楽の少ない当時の社会においては社交場としての役割も果たしていました。
人の集まるところ、お金も集まります。遊郭のような夜遅くまでにぎわうところでは特に、です。一種の商店街、文化センターが形成され、人々はそこで歓談しました。

芝居小屋も次々と立ち並びました。江戸時代の改革では、遊郭と並んで必ず槍玉に挙げられるのが芝居。儒教道徳に反するから、でしょうか。徒に消費を拡大するから、でしょうか。このときも江戸、大坂、京都などで芝居が制限されていました。他国で禁じられているからこそ、名古屋に集中した――「芸どころ名古屋」の形成に宗春だけでなく、吉宗も意外な形でかかわっていたのです。

また東照宮祭礼、盆踊りなど各種イベント開催を開催。領民こぞって熱狂。宗春の世に生まれてよかったと言う声がいくつかの史料に残っております。

  名古屋の繁華に興(京)がさめた

という秀句が作られるほどのにぎわいを迎え、光り輝いたのでした。


宗春の行動は将軍のお膝元、江戸でも変わりません。
嫡子万五郎の端午の節句祝いに、きらびやかな旗・幟を立て、自分の屋敷を江戸市民に開放。目玉の見世物は尾張家家宝の神君家康公の幟。相次ぐ倹約令で娯楽に飢えていた町人たちは、この奇抜な見世物こぞって見学。非常な人気を得ました。
当時の落書にこんなものがあります。

 公方、乞食に似たり
 尾張、天下に似たり

江戸市民の圧倒的な人気を得、宗春は得意の絶頂でした。

もちろんこんな振る舞いを吉宗が許すはずはなく、秘密裏に糾問の使いを繰り出します。
吉宗と宗春が初めて対決したのは実にこのとき。
宗春は吉宗に対し一歩もひかず、独自の政治理論を展開します。
果たしてその内容とは。
時代は、民衆は、どちらの君主を支持したのか。


次回「華美の経済学」でご紹介します。
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by fouche1792 | 2005-09-21 14:26 | 尾張徳川十七代